TOPへ
『新美辭學』のトップ
back

  第二章 詞藻論

第十節 表出法

第三項 設疑法

 設凝とはわざと疑問を提起して答を讀者の心に求むるの謂ひなり。而して其の疑問を提起するの意は、固より我れの解し得ざるものに就きて敎を受けんとするにあらず、我れの豫め期したる解を讀者の心におのづと生ぜしめんとするにあり。按ずるに設疑法の詞藻として妙なるを得るは、之れによりて特別の注意を惹くに由る。即ち先づ問を設くるときは之れを聽くものおのづから解答を求めらるゝが如き心地して空に聞き流すを得ず、注意して之れに對するに至るべし。設疑法の基づく所此にあり。又一には我より云云なりと説明せず、たゞ聽者に説明の材料を與へ、聽者をしてみづから之れが解を作らしめ、以て其の感を一段深切ならしむるの效あり。其の他眞に不明晰なる事柄を半信半疑のまゝ掲示する場合に設疑句法を用ふることあり。此は固より立言の主旨に於て多少上の設疑法と異なる所あれど、兎に角其の一種と見て可なるべし。例へば
汝今吾有なるによりて汝が無を守るとも、吾叉汝が無によりて吾有を守るところを知らず、そも〳〵なんぢは吾影なるか又人の影なるか(柳澤洪園の『雲萍雜誌』)
などいへるも、全く不審なるが故に疑を揭げて知者の解を待つといふ數學問題等と同性質なるにあらずして、只設疑法によりて語尾に餘韻を籠めたるものゝみ。
 設疑の文例
主客の座定まりて其ひきつけの書翰を問へば、頭陀答へて否其書翰は候はす翁はいまだ知らざるものゝ、只名を慕ふて訪ひまつるに、相識(しるひと)紹介(ひきつけ)なければ面し給はずといはるゝにより、且是を僞るのみといふを主人は聞あへず、()は亦調戯(たはむれ)過たるならずや浮屠家(ほとけ)の五戒に妄語を一戒とす、和僧は既に破戒の罪あり、吾何をか聞何をかいはん、已みね〳〵と窘めて立たまくするを頭陀推禁めて云々(馬琴が『八犬傳囘外剩筆』)
夫三尺童子至無知也。指犬家而使之拜則佛然怒、今醜虜則犬豕也、堂々天朝率而拜犬豕、曾童嬬之所羞、而陛下忍爲之邪、云々(胡澹菴の『上高宗封事』)
ヤア詞多し貝田直勝、汝富樓那の辯をふるひ役人共を云ひかすめんと思ふや、譬へば其の方、主人の家に大切なる重寶有て、汝が方へ預る時、盗賊の爲に奪ひ取られ、イヤ某は存じ申さず盗賊の業なりと油斷の言譯立つべきかサ其方何と心得居る、若き主人を預かること器財の類の輕きにあらず、往古周公旦成王を輔佐し給ひ、清和の朝に良房の趣人臣たるものゝ鏡たり、義綱の心亂れ行跡正しからざるは預人の罪誰にか讓らん、返答いかに直勝と、水を流せる詞の楯板、暗きを照す明察はげに日本のかためなり云々(松貫四等作『伽羅先代萩』)
 設疑法は後に擧ぐる婉曲法と相接す。蓋し設疑法の他の一利は、之れによりて自家の疑を表するため、我が臆斷を人に張ゐずといふ謙遜の意を寓し得ておのづから言辭を緩和すればなり。またわが國の語法にては設疑法と咏嘆法とも其の形相似たる點ありて混じ易し。例へば「舜何人ぞや我れ何人ぞや」といふは設疑法なれど「我れ豈舜の何人たるを知らざらんや」といふときは咏嘆法なり。二句共に「や」の字を以て終れども、前の「や」は疑問詞にして後の「や」は反撥して直接に感嘆を意味する詞なるの差別あり。勿論西洋語にも感嘆の意を見すため語の按排を轉倒して疑問のときと同じくするものなきにあらねど、我が國の場合とひとしなみに見るべからず。
 設疑法は極めて自然なる詞藻の一にして、我々が日常の談話にも、少しく力を籠めたる箇所には知らず識らず用ふるを例とす。「斯く〳〵の道理ならすや()にあらずや」などいふ語法は人の善く談話中に挾む所にしてみな設疑の法則にかなへるものなり。
(參照) 設疑法は英語のインターロゲーシヨン(Interrogation)なり。
TOPへ
『新美辭學』のトップ
次へ
〓:読めない