島村抱月,島村瀧太郎,『新美辭學』,新美辭學,明治,明治時代,レトリック,修辞,修辞学,比喩,縦書き,タテ書き,たて書き,たてがき,文学,文芸,小説,読み物,和歌,学芸,文芸作品,著作,著述,文学,文芸,小説,読み物,和歌,学芸,文芸作品,著作,著述

  第二章 詞藻論

第十節 表出法

第一項 警句法

 警句法とは語簡にして意味の深長なるもの、叉は語奇にして意順なるものなり。「提燈につり鐘」「水清ければ魚住まず」などいへるは言必ずしも奇なり逆なりといふにあらざるも、提燈と鐘との釣り合はざる所以、餘りに明白なる事物の却りて不利なる所以等が萬事に通ずるの眞理にして、此の眞理を僅々一二句の譬喩を假りて言ひあらはせる所、やがて警句の警句たる妙味を有する所以に外ならず。また「雪ほど黑いものはない」「盲者の墻のぞき」などいふは言すでに尋常ならず、一見人をして矛盾なりとの感を起こさしむ。されど深く味ふときは、其の裡に動かすべからざる眞理を含み、人をして實にもとうなづかしむるなり。要するに警句法の妙味は如何にして斯く簡單なる語句中に斯の多大の理を含蓄せしめ得るかと、且つ驚き且つ歎稱する所にあり。又は全く撞着と見え無意味と見ゆる語句中に意外にも無量の眞理潜めるを發見する所にあり。思想表出の態度を奇にし非凡にするを本意とす。
 警句法は分かちて四とするを得べし。一は言簡にして意の深長なるものなり「上の好む所下之れより甚しきものあり」などいふが如し。前にもいへる如く此等の言必らずしも奇ならずといへども、簡單の語句を以て能く世間の眞相を發揮したる所に妙味あり。二は言に矛盾ありてしかも意の順なるものなり。「善く泳ぐ者は溺る」といふときは何人も善く泳ぐことゝ溺るゝことの相反するものなるを知るが故に、一見矛盾の言となす。されど仔細に考ふるときは決して然らず。「善く泳ぐものは溺る」とは人の己れの長ずる所に馴れて却りて輕躁身を誤る事多き由を道破せるの名言たるを見出だすに至らん。三は言語の表にては極めて平明なる事柄を繰り返せるが如くなるも、裡面に多量の意義の籠れるものなり。「雪のふる日は寒くこそあれ花のふる日は浮かれこそすれ」などいふときは表面ただ雪に寒く花に浮かるゝ明々白々の理を言ひたるが如くなれど、此のうちに「如何なる大悟の人といへども世にある限りは差別界の欲は到底禁じ難し」との眞理を含むが故に妙なるを得。四は表面上にては全く無關係なる二事物を粗關せしめ、人をして一見無意味の言と思はしめながら、其の他面に眞理を含蓄するものなり「夕すゞみよくぞ男に生れける」といふときは夕凉と男子に生れたることゝ何の因縁もなきやうなれど、一歩進みて此の句の作者が當時の感慨を想ひ來たれば、其の間おのづから融通する所あるを認むべし。
 警句法の文例下の如し 此の他發句川柳等には警句法といはるべきもの多し。夫の秀句奇句などいふは大抵此の種に屬せり。
 または「居候三杯目にはそつと出し」「町内で知らぬは亭主ばかりなり」等の如きすなはち是れなり、蓋し情よりもむしろ理に於て優れる秀句の警語めきたるものとなるは自然の勢なるべし。また格言ことわざなどにも警語多し此は一方より見るときは警語なりしがために傳唱せられて格言となり諺となれるものといふを得べし。「千羊の革は一狐の腋にしかず」「鷄口となるも牛尾となる勿れ」「鷄を割くになんぞ牛刀を用ひん」「論語よみの論語しらず」「世の中は目くら千人目あき千人」等擧けつくすべくもあらず。