島村抱月,島村瀧太郎,『新美辭學』,新美辭學,明治,明治時代,レトリック,修辞,修辞学,比喩,縦書き,タテ書き,たて書き,たてがき,文学,文芸,小説,読み物,和歌,学芸,文芸作品,著作,著述,文学,文芸,小説,読み物,和歌,学芸,文芸作品,著作,著述

  第二章 詞藻論

第八節 化成法

第三項 現在法

 現在法とは現在に寫し出だすの義なり、即ち過去に起こりし事物、將來に起こらんとする事物、眼前にあらざる事物、全く想像架空にして實際に存せざる事物等を、今現に目のあたりに在るが如く描寫するの詞なり。されば現在法は頓呼法を相出入る。たゞ頓呼法は現にあらざるものを在るが如く見做すと共に、之れに、向かひて對話風に呼びかけ話しかくるを本領とすれど、現在法は現に在らざるを在るが如く言ひなすのみ。たとへば「月傾きぬあはれ山の端避けよかし」といふは、目前にあらざる山の端を在るが如く呼びかけたる頓呼法なれど「月傾けども山の端心なければ避けんともせず」と云ふときは、一句の命脈單に山の端の動作を今現にあるが如く言ひあらはしたるのみにあるが故に、現在法なるの類なり。
 現在法は分かちて三となすを得べし、歷史的、想像的、豫言的是れなり。歷史的現在法とは、凡て過去に屬せる事柄を現時目前にあるが如く書きあらはすの謂なり。此は現在法中最も廣く用ひらるゝものにして、歷史家殊に之れを慣用す。但し西洋にては、近世に至り、歷史と雖ども科學的精密を語句の間に保たざるべからすとの趣意によりて漸々かゝる詩歌的現在法の筆法を用ふるもの減じたりといふ。わが國にては、純粹なる古史には却りて現在法などを用ひたるもの尠く、動詞の過現未の時別は殊に嚴なりき。之れ一には我が國語の性質の然らしめしに由るか。されどまた史家の筆致にも由るべければ、一概には言ひがたし。動詞に確たる文法上の時を限らずして、自在に現在法を用ふるは、漢文に如くなし。  是れ、左氏の叙戰法中最も簡にして勁なりと稔せらるゝもの、而して其「伐呉」といひ「大亂」といひ「敗之」といふが如き、固より過去の事を叙するものなるが故に、文法上よりいふときは「呉々伐ちぬ」「大に亂れぬ」「之れを敗りたり」など讀むべきなれど、漢文の文致よりいふときは、却りて「呉を伐つ」「大に亂る」「之を敗る」と訓するを本意とするの類也。
 次に豫言的現在法とは歷史的現在法に反して、未來の事を今目のあたりに起こりたる如く言ひなし、以て聽者の感を動かすの語法なり。例へば「條約改正の成りたらん曉には内地雜居は許されん、外人は績々入り込まん、商業に工業に外人の競爭は始まらん此の際緖君は何を以て敵を制せんとするか」といふべきを「條約改正成るの曉には内地雜居は許さる外人は續々入り込む商業に工業に内外人の始まる緖君は此の際何を以て敵を制せんとするか」といふの類は、演説家などの好みて用ふる所とす。最後に想像的現在法とは時間の過去未來に論なく、全く空想上の事柄を現に在るが如く言ひあらはすの謂にして、詩歌などに最も多く用ひらる。  此れら全く想像裡の事なるが故に、過去にも屬せしむべからず、未來にも屬せしむべからす、現在法によりて描出するを最も當たれりとするなり。
 現在法の造句は、語尾に現在動詞を用ふるを通例とす。即ち「行けり」「行かんとす」「行かん」などいふべきをも、凡て直に「行く」といひて已むなり。されどまた間々現在動詞の外に現在といふことを説明する詞を添ふることあり。例へば「春雨や今のも暮の鐘でなし」の類之れなり。
 現在法の文例下の如し。  わが國の文學にては,時に接綾詞を略して現在動詞のまゝ下の句に連なることあり、此の際の語法と現在法とは混ずべからす。上の文例に就きて言ふときは「前にあるかとすれば忽然として後にあり奮撃突戰秘術をつくす」といへるうち、其の後にあり」の一句若し下にかゝらざるときは、無論現在法と言ふを妨げすといへども、此處にては、「前にあるかとすれば後にあり斯の如くして奮撃突戰秘術をつくす」といふの義なるが故に、其の結尾なる「秘術をつくす」といふ語の如何によりて過去現在の何れとも定まるべきものたり。即ち「前にあるかとすれば後にあり斯くして奮撃突戦秘術をつくしぬ」といふときは過去の義となり「前にあるかとすれば後にあり斯くして奮撃突戦秘術を盡くす」といふに文を結ぶときは、現在の義すなはち現在法となるものと知るべし。
 現在法も之れのみを濫に用ふる時は、不自然のものとなりて文致を害ふべし。殊に現在動詞を用ふるに當りては過去、將然等の動詞と錯落せしめて意匠の迹を露さいらんと力むるを要す。上の例文中『藩翰譜』の場合の如きは、既に幾分か故意に現在法を用ひたるが如き迹見えたり。即ち二度三度讀み返す時は、總じて戰を叙するの筆は斯かるべきものぞといはぬ計りに現在法を用ひたるが如き感を生すべし。 此文の如きは叙事の筆として上乘のものなり。其の現在法を粗ふる鹽梅の巧なるは、凡手の能くする所にあらず。勿論之れを現在法な妙と知りて筆を下だせしものゝみにはあらざるべきも、過去動詞と現在動詞との配合をおのづから度にかなひて、現在法を用ふるの好模範となれるものどいふべし。以上の外、眼前の景によりて情を抒るの和歌俳句等には、現在法に循へるものいと多し。「初雪やまづ廐から消えそむる」「夕立や家の囘りてあひる鳴く」「長松が親の名で來る御慶かな」「春立てば花よや見わむ白雪のかゝれる枝に鶯の鳴く」「野邊ちかく家居しをれば鶯の鳴くなる聲は朝な〳〵聞く」など一々擧げつくすべくもあらず。
〓:「山」ヘンに「茲」、UTFコード不明