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  第二章 詞藻論

第八節 化成法

第一項 擬人法

 擬人法とは情の高まれる結果、非情の物をも我れと同等なる有情物の如く言ひ做すの法なり、情の力によりて死物が生物化せらるゝなり、無生物を表するの想念が活物を表するの想念に變ぜらるゝなり。例へば「狂瀾怒濤」「歳月人を待たず」「自露や無分別なる置きどころ」などの如し。精しくいはんに、上の例にて、狂す怒る等は、本來高等なる生物の働作に冠すべき名にして、瀾濤などの無生物にはあるまじきことなれど、大海原の暴れに暴れて大瀾巨濤の逆捲くさま、宛然悪鬼羅刹の狂ひ怒るが如く思ひ做さるゝより、さてこそ此の思ひ做しを直に實物の上に被らをしめて、瀾狂ひ濤怒るとは言ひたるなれ。歳月はた心ありて人を待ち待たるゝが如きものにあらず、白露に分別なきは固よりの事なるべし、さるを何れも情の激せる餘り或は人を待ち或は分別すべきものゝやうに言ひなしたるに外ならず。要するに擬人法とは無生物に生を附し無心物に心を附し、死物を開眼して活かし働かしむるの比喩と知るべし。  これらの外「春溫萬物を育す」といひ「天道は盈てるを虧く」といひ「日月照臨」といひ「寒暑往來」といふが如き擬人法の例なり。
 擬人法はまた分かちて三となすを得べし。第一は單に有情物にのみ冠すべき形容詞を非情物に冠せしむるものにして擬人法の最下層に位す。第二は進て無生物を全く生物と見做し人間と同樣の動作をなさしむるものなり。第三は更に無生物をして人間の動作就中話説をなすを得しめ、若しくは他人の話説を聽き分くるを得しめ、以て人間と等しく對話せしむるにあり。勿論此れらの區別は度の上よりせるものにて、根本は一なること。例へば「笑める春」「天道は正直なり」などいふときは第一種に屬すれど「春笑む」「天道は私せず」と言ひ換ふれば第二種に入るか如きものなり。只第三種の一部のみは別に之れに後の頓呼法の分子を加ふるの必要あり。「瓢兮瓢兮我愛汝」といふは啻に瓢を有情の吻とするのみならず、又之れを面のあたりに呼び出す頓呼をも交ふるなり。 さて擬人法の第一種、非情を有情の如く形容せる例は下の如し。 また無生物に人稱代名詞を用ふる揚合も此の種の擬人法に數へらるべし。此は我が國本來の文脈には罕にある例なれど、歐文の影響を蒙りてより漸くしば〳〵用ひらるゝに至れり。西洋にては更に之れに男女の性をさへ附して一般に用ひらる。船といふときは之れを受くるに彼の女(She)といふ語を以てし、戰箏といふときは之れに代ふるに彼れ(He)といふ語を以てするの類是れなり。
 次に擬人法の第二種無生物に動作を有たしむるの例  わが國の文學には此の種の擬人法多し、短き語句をもて多重の感想を發揮し、又は景によりて情を爲すを主とせる和歌誹諧等殊に然るを見る。
 擬人法の第三種無生物をして話説せしめ又は我れの説話を聽聞せしむるの例は  此れら凡て極めて橿値なき者を人間に比擬する滑稽の旨にかなへるものなり。擬人法を用ふる例の詩に多くして文に少きは、常然の理なるべし。中にも低級なる擬人法は文にも少からねど、上級なるものは主として調の高き詩歌類にのみ用ひらる。またわが國の文學には擬人法によらずして無生物を人間化せしめたるもの殊に多く、草木土石の露の人間と現じて過去の物語をなすが如きは、作家の慣手段なりしなり。  擬人法の一種とも見るべきものは、其の反對なる擬物法なり。人間を却りて非情化するの修辭法にして「人の子一つ通らぬ」といふときは、其の「一つ」といふに、「人の子」を物情の如く取り扱ふ意を示せり。他に面會せしことを俚語にて滑稽的に「お目にぶらさがつた」などいふも此の類なり。かゝる例はなほ多し。