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  第二章 詞藻論

第八節 化成法

第一項 擬人法

 擬人法とは情の高まれる結果、非情の物をも我れと同等なる有情物の如く言ひ做すの法なり、情の力によりて死物が生物化せらるゝなり、無生物を表するの想念が活物を表するの想念に變ぜらるゝなり。例へば「狂瀾怒濤」「歳月人を待たず」「自露や無分別なる置きどころ」などの如し。精しくいはんに、上の例にて、狂す怒る等は、本來高等なる生物の働作に冠すべき名にして、瀾濤などの無生物にはあるまじきことなれど、大海原の暴れに暴れて大瀾巨濤の逆捲くさま、宛然悪鬼羅刹の狂ひ怒るが如く思ひ做さるゝより、さてこそ此の思ひ做しを直に實物の上に被らをしめて、瀾狂ひ濤怒るとは言ひたるなれ。歳月はた心ありて人を待ち待たるゝが如きものにあらず、白露に分別なきは固よりの事なるべし、さるを何れも情の激せる餘り或は人を待ち或は分別すべきものゝやうに言ひなしたるに外ならず。要するに擬人法とは無生物に生を附し無心物に心を附し、死物を開眼して活かし働かしむるの比喩と知るべし。
人しれず花とふたりの春なるを待たせても咲く山櫻かな(香川景樹)
中に一の大蛤、日かけに口を打ひらき、取る人ありとも白泡の、汐を吹いて盛りあげし()や蛤よく氣を吐いて樓臺をなすと云ひしも斯くやと見とれ居る所に、磯の藻屑に飛びわたり(あさ)(はね)音おもしろく()り居る鴫の屹と見つけ、觜いからし只一つゝきと狙ひ寄るヤア云はれぬ鴫殿、看經(かんきん)もする身で之れがほんの殺生かい、蛤も蛤口をくわつと破戒むざん飛びついてかち〳〵〳〵(つゝ)く所を貝合にしつかと喰ひしめ動かせず、鴫は俄に興さめ顔、引つゝしやくつゝ羽たゝきし頭を振つて岩根に寄せ、打くだかんず鳥の智慧、蛤は砂地の得物汐のたまりへ引き込まんと尻下りに引き入るゝ、鴫は翮を張つてぱつと立、一丈ばかりあがれども釣られ落ては又立上り、ばつと立てばころりと落、鴫のはねがき百羽掻、毛を逆立てゝぞあらそひける云々(近松作『國性爺合戦』)
 これらの外「春溫萬物を育す」といひ「天道は盈てるを虧く」といひ「日月照臨」といひ「寒暑往來」といふが如き擬人法の例なり。
 擬人法はまた分かちて三となすを得べし。第一は單に有情物にのみ冠すべき形容詞を非情物に冠せしむるものにして擬人法の最下層に位す。第二は進て無生物を全く生物と見做し人間と同樣の動作をなさしむるものなり。第三は更に無生物をして人間の動作就中話説をなすを得しめ、若しくは他人の話説を聽き分くるを得しめ、以て人間と等しく對話せしむるにあり。勿論此れらの區別は度の上よりせるものにて、根本は一なること。例へば「笑める春」「天道は正直なり」などいふときは第一種に屬すれど「春笑む」「天道は私せず」と言ひ換ふれば第二種に入るか如きものなり。只第三種の一部のみは別に之れに後の頓呼法の分子を加ふるの必要あり。「瓢兮瓢兮我愛汝」といふは啻に瓢を有情の吻とするのみならず、又之れを面のあたりに呼び出す頓呼をも交ふるなり。
(參照) 泰西の修辭學者がプロソポピア(Prosopopeia)と呼ぶものあり。こは擬人法と頓呼法とを合しれらんが如きものにて無生物な活かし及び現に在らざうものな在るが如く呼びかくるの語法なり。上にいへる第三種の擬人法は此の類とも見るべく、結局擬人法の一種たるに過ぎす。
さて擬人法の第一種、非情を有情の如く形容せる例は下の如し。
何をか後世の土産とも、いざしら露のあだし野や、野邊よりあなたの友とては樒一枝一しつく是れぞ冥途の友となるしるべとなれや此の言葉、形見ともなれ、囘向となれ、迷ふな我れも迷はじ云々(近松作『夕霧阿波鳴渡』)
この頃の暑さも忘れぬるとて端近かう出づれば夕月の光さしわたりて草木の露も玉なすに、聾ふくれたる蛙の物待ち顔に室打ちにらみてふつゝかなる音になくもをかし云々(松李樂翁の『花月草紙』)
蒲團被て寐たる姿や東山(服部嵐雪)
片枝に賑や通ひて晦の花(各務支考)
籠の中の鸚鵡おばしまに循つて伏し仰ぎ牖を窺つて踟蹰(はづくひ)す紺の足丹き觜、綠の衣、翠き衿、金精の妙質、火德の明輝、辨才聰明にして能くものいふ、靈鳥いかんぞ時のさかしきに遭へる云々(近松作『平家女護島」)
また無生物に人稱代名詞を用ふる揚合も此の種の擬人法に數へらるべし。此は我が國本來の文脈には罕にある例なれど、歐文の影響を蒙りてより漸くしば〳〵用ひらるゝに至れり。西洋にては更に之れに男女の性をさへ附して一般に用ひらる。船といふときは之れを受くるに彼の女(She)といふ語を以てし、戰箏といふときは之れに代ふるに彼れ(He)といふ語を以てするの類是れなり。
 次に擬人法の第二種無生物に動作を有たしむるの例
きり〳〵すの、つゞりさせとは人のために夜寒をおしへ、藻に住む蟲はわれからと只身の上をなげくらんを、蓑蟲の父よと呼ぶは宮守の妻を思ふには似す、されど父のみ戀ひてなどかは母をしたはざるらん(横井也有の『百蟲譜』)
はれくもる影に都にさき立てゝしぐると告ぐる山のはの月(具親朝臣)
木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありとを知らで行く嵐哉(前大僧正慈圓)
長持に春かくれ行く衣がへ(井原西鶴)
行く秋を道々こぼす紅葉かな(中川乙由)
雪折々人を休める月見かな(松尾芭蕉)
かゝれば伏姫末期に及びて、身のため又犬のために、提婆品を讀み給ふ、今を限りと思へばや音聲高く澄渡り、絶えず又(よご)まずして、蓮の絲を引く如く又水出(いずみ)の走るに似たり、峯の松風も之れに和し谷の幽響(こだま)もこれに應ふ。石を集めて聽衆とせし昔もかくそありけんかし、いともめでたき道心なり(馬琴作『八犬傳』)
飛鳥川の淵瀨常ならぬ世にしあれば時うつり事去りたのしみかなしみ行きかひて、花やかなりしあたりも人すまぬ野らとなり變らぬ住家は人改まりぬ桃李ものいはねば誰と共にか昔を語らん、況して見ぬ古のやんごとなかりけん跡のみそいとはかなき云々(吉田兼好の『徒然草』)
垣根も折戸も靑やかに、心地よげに這ひかゝれるかつらに、白き花のみぞ己れひとり笑みの眉開きしは、何なるかと問はせたまへば、籠舁くをのこあれこそはからす瓜、その名は黑き鳥めきて花は白く實は赤く、かゝるいぶせき垣根にのみに咲き候と答ふるにぞ、實に此のわたりは小家がち打ちようぼひし軒の褄はひまつはれるくちなしの花の契や、一ふさ折りて參れとのたまへば云々(柳亭種彦作『田舎源氏』)
 わが國の文學には此の種の擬人法多し、短き語句をもて多重の感想を發揮し、又は景によりて情を爲すを主とせる和歌誹諧等殊に然るを見る。
 擬人法の第三種無生物をして話説せしめ又は我れの説話を聽聞せしむるの例は
しはすの月の曇なく出でたるを簾をあげて見たまへば、向かひの寺の鐘の聲枕を欹てゝけふも暮れぬと幽なるを聞く云々(紫式部作『源氏物語』)
百舌問花花不語。低廻似恨橫塘雨。峯爭紛蕋蝶分香。不似埀楊惜金樓。願君留得長妖韶。莫逐東風還蕩揺。秦女含頻向姻月。愁紅帶露室迢迢(唐の溫庭鋳が『惜春詞』)
ほとゝぎすいかに鬼神もたしかに聞け(西山宗因)
閑呼鳥(かんこどり)われも淋しいか飛んで行く(中川乙山)
我が涙もとめて袖に宿れ月さりとて人の影は見えねど(後京極攝政)
蝶よ〳〵花といふ花のさくかぎり汝か到らざる所なきかな(香川景樹)
よろづたびかへり見すれどいや遠に郷はさかへぬいや高に山も越し來ぬ夏草おもひ萎えて忍ぶらむ妹が門見ん靡け此の山(柿本人麿作『別妻上來時歌の一節(ママ)
春のうぐひす何を着て寢やる、花を枕に葉をかけて(俗歌)
滑稽の意味にて(わざ)と不釣合なる擬人法を用ふることあり「手をついて歌申し上ぐる蛭かな」の類はむしろ此の種の滑稽に屬するものといふべし。
摺小木に知らるな蓼の花ざかり(山崎宗鑑)
かくばかり替る姿や干蕪(青木鷺水)
腹筋をよりてや笑ふ絲櫻(北村季吟)
一の上座に座し居たる鯨ゆふ〳〵と立出で申しけるは、仰の通り御上の御大事此の時なり私義は身不肖ながら家がらたるを以て代々大老職相勤め是れに竝み居る鰐鯊(ふか)魚なんども家老の座に連なりしびまぐろなどは用人を勤むれば彼等とも内々評議致せし處所詮人界の樣子委く聞き届けたる上ならでは謀は出まじく存じ付き、手下の者共の内にて才覺ある者どもを忍びに遣はし置きたれば定て樣子相知れなんと申す詞も終らぬ處へ御注進と呼はり呼はり眞黑になりてころ〳〵とかけ出るは本店邊に住居する業平蜆にてぞありける云々(平賀鳩溪の『根南志具佐』)
 此れら凡て極めて橿値なき者を人間に比擬する滑稽の旨にかなへるものなり。擬人法を用ふる例の詩に多くして文に少きは、常然の理なるべし。中にも低級なる擬人法は文にも少からねど、上級なるものは主として調の高き詩歌類にのみ用ひらる。またわが國の文學には擬人法によらずして無生物を人間化せしめたるもの殊に多く、草木土石の露の人間と現じて過去の物語をなすが如きは、作家の慣手段なりしなり。
(參照) 擬人法また活喩とも名づくべし。こゝには譬喩法と化成法とを分かつの理によりて、擬人法といふ名な採れり。英語にては之れなパーソニフヰクーシヨン(Personification)といふ。
 擬人法の一種とも見るべきものは、其の反對なる擬物法なり。人間を却りて非情化するの修辭法にして「人の子一つ通らぬ」といふときは、其の「一つ」といふに、「人の子」を物情の如く取り扱ふ意を示せり。他に面會せしことを俚語にて滑稽的に「お目にぶらさがつた」などいふも此の類なり。かゝる例はなほ多し。
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