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  第二章 詞藻論

第七節 譬喩法

第六項 引喩法

 引喩法とは古人の成語または故事を挿みて文を裝飾するの謂なり。而して引喩法の本來は隱喩法とひとしく本義と喩義との別を隱すにあれど.他に直喩法の如く明らさまに引喩法たることを示すものあり。後者は之れを引用法ともいふを得べし。人の隱れて出でざるを「岩戸がくれ」といひ「先づ己れよりせよ」といふべきを「請ふ隗より始めよ」といふが如きは前者なり。「衆口金を鑠かすと古人の金言宜なる哉」などいふは後者なり。
 引喩法の文例下の如し
されば愛想慈悲は達多が五逆にすぐれ、方便の殺生は菩薩の六度にまされりとか、これを見、かれを聞き、他を是非知らぬ身のゆくへ、迷ふも悟るも心ぞや、されば心の師とはなり心を師とせざれと古き詞に知られたり云々(謠曲『熊阪』)
 伏姫はなか〳〵に見るも齋忌(ゆゝ)しく疎ましくて、絶て言葉もかけ給はず、石室の端にちかう居て、硯に墨をすり流し、殘りすくなくなりにける料紙の皺を引き延ばして、わがうへ、權者の示現まで、ことばみじかく義理ふかくいと哀にぞ書き給ふ、折しもあれ、水は瀨まくらに轟きて三閭太夫がうらみおもひやるべく、松はをのへに吟じて有馬(ありまの)皇子(みこ)無常を示せり云々(馬琴作『八犬傳』)
 加旃(しかのみならず)とのかたは連綿として杳なる河水遶りて砌を浸せば、たとひ信乃武事長け臂力(ちから)衰へす、よく見八に捷ち得るとも墨氏が飛鳶を借らざれば虛室を翔るべくもあらず魯般が雲のかけはしなければ地上に下るべくもあらず、渠れ鳥ならすも羅に入りぬ、獸ならずも狩揚にあり、三寸息絶ゆれば(こと)縡みな休まん、脱れ果てじと見えたりける云々(同上)
 エヽ聞きわけなしと引き切つて、舟をふかみに漕ぎ出せば、詮方波に身をひたし、只手を上げて舟よなふ、舟よと呼べど出舟の、かいなき巖に駈け上り、唐土の足をつま立のび上り、見送る影を遠ざかる、望夫山わが朝のひれふす山、今の我が身の我が思石ともなれ山ともなれ、動かじ去らしとかきくどき、淚限り聲限り互に寄れば招かれて姿を隱す汐ぐもり云々(近松作『國性爺合戦』)
 太液の芙蓉未央の柳もけに通ひたりし形を、唐めいたる粧は麗しうこそありけめ、懐かしうらうたげなりしをおぼし出づるに、花鳥の色にも音にもよそふべきかたぞなき羽をならべ枝をかはさむと契らせ給ひしに、かなはざりける命のほどぞ盡きせずうらめしき云々(紫式部作『源氏物語』)
 誰やらが姿に似たり花の春(松尾芭蕉)
 路傍の槿は馬に喰はれけり(同上)
 夜をこめてとりの空音は謨るとも世に逢阪の關はゆるさじ(清少納言)
 引喩法の例は詩歌文章ともに多し。其の淵源につきては、西洋にては聖書、希臘文學等を最とし、經文的引喩、古典的引喩等の分類すら生せり。我が國にては支那の文學に淵源せるもの最も多し。是れ往時のわが學源學風の然らしめし所ならん。また若し引喩法を分類せんとせば、其の顯に引喩せるものと隱に引喩せるものとを分かち、隱に引喩せるものゝ中にても事を取りて語を捨てたるものと、語をも併せ取れるものとを分かつ等のことあり。隱なる引喩と顯なる引喩との例は前に擧げたり。事のみ引けるものと語をも倂せ引けるものとの例を示さんに上にいへる清少納言が「夜をこめて」の歌の如き又は芭蕉が俳句の如き、一は函谷關の故事を引きたるもの、他は「端正容貌若陽春」「槿花一朝榮」等の古句に因めるものにして、而も原文の語句をば些も假用せす。之れに反して「浮世はまことに塞翁が馬なり」などいふときは「塞翁馬」の事柄と語句とを倂せ引けるものとなるべし。
(參照) 引喩法は英語にてアリュージョン(Allusion)と稱す。之れに關する規則ともいふべきもの、第一引喩法は力めて何人にも解し易きものな擇ぶべし。少數の學者專門家にあらざれば解せられざるが如きに詞藻の本意な失ふものなり。人既に己が思想を文字、言語にあらはす以上は其の意必ずや成るべく廣く永く人にも傳へんといふにあるべければ已むを得ざる場合の外に及ばん限り遍通といふとに注意するを至當とす。若し難解の故事故語な引かざるを得ざるときは之れに相當の説明を附すべきなり。第二引喩法を用ふるは外の比喩とひとしく自然なるべし。ことさらに博學を衒はんため又は人を迷はしめんため自家の記憶にもなき故事成語を探り索めて用ふるが如きば弊なり。されど此の一事は徹頭徹尾排すべきものといひがたき節あり。時としてはわざ〳〵探し得たる引喩が他に得難さ好説明好裝飾となることなきにあらず。また古人には己れの記憶に熟ぜる故事故語をも之れを用ふるにあたりては孟浪にぜす一々出所な討檢するものあり。津坂孝綽の『夜航詩話』に「事か用ふるに照管な失へば笑を貽すこと小ならず故に爛熟といへども亦須く檢看すべし。『四清詩話』に曰はく事な用ひんには心目の間に了在すといふとも亦當に時に就きて(かんが)へ用ふべし即ち記すること(かた)うして誤らずと。(〓〓)に格言也。李義山詩文な(つく)るに座上の書册排比して前に滿ち以て考用に資しれり時人之れな獺の魚を祭るなりと謂へり。歐陽大年交章な爲るに用ふる所の故事常に子弟諸生をして出處を檢討せしめ毎段小紙な用ひて之れを錄し文既に成れば即ち錄せる所を粘綴して之な蓄へれり時人之れを衲被と謂へり。楊陽永叔文章を爲るに至熟の故事といへども亦出所な檢し然して後筆な下せり。黄魯直も亦自ら常に言へらく詩文を作る毎に檢閲を厭はずと。余甞以爲へら名匠の製作に手(はな)ちて揮霍す諸れを腹笥に取れるのみ我が輩の一詩文を作る毎に此の題の書籍を將りて捜さゞる所なきが如くならずと。四君子の勤な見るに及びて亦未だ必すしも羞と爲さざる也し」と曰える、以て古人の苦心を窺ふべし
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