TOPへ
『新美辭學』のトップ
back

  第二章 詞藻論

第七節 譬喩法

第五項 諷喩法

  諷喩法とは一説話中に他義を含ましむるもの、就中意味なきものを假りて之れに意味ある事柄を影の如く寓せしむるの謂なり。言ひ換ふれば人事上の諷刺勸誨の意を無生物其の他劣等なる物の動作に寓せしむるの比喩といふべし。例へば「鳩を以て大鵬を咲ふ」「燕雀何ぞ鴻鵠の志を知らんや」などいへるは何れも小人が君子の心を得知らざる由を鳥の上に寓言せるの類なり。故にまた寓言といふ名あり。されど嚴にいふときは、寓言はむしろ英語のfable又はparableなどに相當し、諷喩法とは多少差あるべし。此處にはfableを寓言(詳しくは寓意物語)と譯し之れと諷喩法とを別かたんとす。また修辭家によりては.此の寓言と諷喩法との差異を單に喩の長短に歸し、長く續きたるを諷喩法といひ、短く切れ〳〵くなるを寓言といふ。されど斯かる區別は實際上無用のものねたるを免れず。
(參照) 此の點に關してやゝ精しき別を立てたるはヘーヴン氏の書なり其の意「寓言は架空の作り物語にして其の事柄が本來既に不都合なる上に大抵實在し得べからざるものなり而も尚能く或種の訓誨又は思想を傳へ明にするの用をなす。故に之れと諷喩と異なるは第一其の事柄の不都合にして必然架空の談れること、第二諷刺の如く丈字通りの事柄と之れが裡面に籠れる寓意と多くの點にて類似するた要ぜず概して單一なる道德上の意味な含めるのみにて事足ることの二點にあり」(“Rhetoric”――Haven)
 諷喩法を分かちて下の二類となすを得。第一、全く架空にして到底人事にあるまじき話柄を假り之れに意を寓せるもの、第二、其の話柄は作り物語なるにもせよ實際に成し得られざるにあらざるもの是れなり。
 諷喩法の第一種、到底人間にあるまじき話柄を材料とするもの、たとへば非情の物をして人間の如く動作せしめ、又は人間をして天道地獄など實際に無き境に出入せしむる等の例
善魂の通力にて京傳は無二郎が腹の中へはいりて見れば腹の中に一つの國あり、是れかの小天地のいひなり、名づけて無狀無象國といふ此國の檀那はすなはち心なり、番頭は氣なり心と氣とはもとはもと一體ぶんしんなり耳目鼻口の四のものは重手代にて役人なり足と手は手代より腰元、草履取、丁稚までを兼ねて務め中でもいそがしきつとめなり此のものどもの腰へ一條づゝの繩を着けあるじの心之れをしつかと締め括り居て手を動かさんとするときは手の繩をゆるめ歩まんとするときは足の繩をゆるめ皆々心の下知にしたがつて働くこと鵜づかひの如く猿まはしの如し、心のこまの手綱ゆるすとはこゝの事なり。無二郎が心かねてより正しければ善くおちつき居てみな〳〵に下知するゆゑ此の國よく治まりておだやかなり、されど憾むらくは無二郎年わかければ番頭株の氣は何かにつけており〳〵氣のかはる事ありてふら〳〵とした氣になれども心は退いてよく思案しなをし固く氣を戒めて暮しける足は手をおこす「これ〳〵手よ目をさませ〳〵檀那がさつきから繩を動かさつしやる。」手がいふ「ナァニ知らねへふりをして居るがいゝ大かたまた鼻に手ばなをかんでやれといふ事だらう恐れる檀那だ」。(京傳作黃表紙物)
腹中の世界に入るといひ、心や耳目やが人間などの如く動作すといひて、其の裏面に人心の作用を説明せんとするなり。
住なれし御城の堀も氣味わろくせめては君のおはします近きあたりにたよらんと尾長、靑首、赤頭、小鴨まじりにかひつふり、はたり〳〵と立出てゝ、不忍池へと心ざし北へ遙に登りては、めなれし護持院にしばらく翼を休めんと立出で見れば御堀端、今は賴も切れはてゝ、神田橋さしてぞ急ぎつゝ、土物店になりぬれば、ぬぎ賣る聲の冷しく、扨須田町に飛び行けば亦いつの日かいかならん人にさそはれて心うく、此所にや來らんと、泪ながらに行ぐほどに行くほどに(ママ)池の端にぞつきたまふ(『賣永落書』)
鳥類の動作に事よせて何某の身の上を嘲れるなり。
龍噓氣成雲、雲固弗靈也。然龍乘此氣茫洋窮乎玄間、薄日月光景、感震電、神變化、水下土、汨陵谷、雲亦靈怪矣哉。雲龍之所能使一レ靈也。若龍之靈則非雲之所能使一レ靈也。然龍不雲無以神其靈矣。失其所愚依信不可歟。異哉其所憑依乃其所自爲也。易日、雲從龍、既曰龍雲從之矣。(韓退之の『雜説』)
人事の際會を龍と雲との上に寓言せるなり。
 諷喩の第二種、話柄は作り物語なるも其事柄あながち實際界に在り得べからざるにあらざるものたとへば全く別なる人事の上に諷意を寓する等の例は下の如し。
むかし京に今大路何某といふ名醫がござつて、名高い御人じや、或時鞍馬口といふ處の人、霍亂の藥を製して賣弘めまするにつき、看板を今大路先生に御願ひ申して書いてもらはれました、其の看板に、はくらんの藥と假名で御書きになされた、ソコデ賴んだ人がどがめました。先生是れはくわくらんの藥ではござりませぬか、何ゆゑはくらんとはなされましたぞ、先生笑ふて鞍馬口は京へ出入の在口、往來は木こり山がづ百姓ばかりくわくらんと書いてはわからぬ、はくらんと書いてこそ通用はするなれ、眞實の事でもわからぬときは役にたゝぬ、たとひはくらんと書いても、藥さへ功能があれば能いではないかと仰せられました、(『鳩翁道話』)
龜菊手に汗握りしが禿の時より善し惡しの事に揉まれて驚かず、しやんと立つて「申しお二人樣、顔を赤めて何ぞいの、たんと無念さうに見えるぞえ、里がよひなされしほどにもない、是れがなんの耻ぞいの、謂はれぬ差し出か知らねども、他事ない虎さま少將さん、龜菊が一座に居て、うつかりと見ていたかと思はんすも氣の毒な、お侍の義に迫るも浮世の戀に身を碎くも、命懸けるは同じ事、たとへば酒の意趣ある中、二日心か公用か、醉うてはならぬ首尾もある、其の足元を見て張り合ひ懸けての不強ひ、得て是れに手を取るわいな、そこらを千疋繋いで耻をかくが手柄の基、さあ飲み伏せたと油斷させ、心をゆるす門立ちか思ひかけなき朝込み、ずつと仕かけ、差引ならぬ手詰の盃、腕を捻ぢ上げ首をおさへ、いぎかけ〳〵奈落の底まで飲み伏せ、引き起こして止めの盃一獻さいてしやんと取る、是れを本望本酒の手柄といふわいな、さりながら此の龜菊も、いつぞや山下宿で三日三夜、和田さんの大よせに、朝比奈さんの無理酒には、誓文とんといきついた」と笑ひて其の座をくつろげしは、物に馴れたる仕こなしなり云々(近松作『曾我會稽山』)
前者が「眞理にても迂闊にして實際に通ぜざれば何の効もなし」といふ意を寓し後者が酒に事よせて仇討の手筈を教ふる等是れなり。」
 外に人間全禮の美徳缺點等を個人に權化せしむる類の諷喩法あり彼の英國古代の詩人スペンサーが作れる『仙女王』(Fairy Queen)に人間の十二美德を十二人の武士に權化せしめたるもの、此の種の諷喩の大なるものと稱せらる。我が國にて『八犬傳』の如きも其の立意の發端のみにつきて言へば仁義禮智忠信孝悌の八德を八犬士に假裝せしめたる諷喩法といふ婪を得べし『夢想兵衞蝴蝶物語』などもまた色欲といび貧禁といふが如き悪德を一郷に權化せしめたるものなり。要するに諷喩法は話柄の作り物なると之れに話柄以外の深意の籠れると話柄の表には深意の些も直現せざるとを本面目とすべし。
 或な話柄を人事に取れるものを諷喩法と見做さゞるあり即ち常に高尚なる事柄を劣等なる事柄に寓せしむるを諷喩法の本意とし一の人事を伺等なる他の人事に寓せしむるが如きは之れを諷喩法とせざるなり。げに詞藻上の喩といへる點より見ば啻に事柄のみならず事柄を組織する物質までも全く懸け離れたる種類のものなるを妙とすることあるべし、人間の事柄をば鳥獸草木の上の事に比擬するの類之れなり。されどまた一方より見るときは諷喩法の諷喩法たる所は事柄其の物の上にありて事柄を組み立つる個々物の上にはあらず直喩法隱喩法などは、一句一物の比喩を主とすれども、諷喩法は事柄の比喩を主とするが故に、事柄だに隔離して而も相比するを得べき點だにあらば諷喩法たるを妨けざらんか。是れ本書が第二種の諷喩法を加へたる所以なり。
 諷喩法と直喩法喩隱(ママ)法との間には劃たる境界あり、詞形に於いては言ふまでもなし、本意に於いても直喩法隱喩法等は眞面目に其の事物に對する情の高まれるにつれて比喩の急調に進み行けるものなれど、諷喩法は之れと異なりて、わざと喩中の本義を晦くし、外見上喩義の外に寓意の端を示さゞるやう匠むものなり、勿論時としては餘りに本義知れ難き場合には多少の説明詞を加へて之れをほのめかすことなきにあらざれど本來は飽くまでも喩義以外に本義の片影をも顯さゞるをもて諷喩法の妙なるものとす。即ち命意の當初に於て既に直喩法隱喩法等と諷喩法と相異すといふべし。
(參照) 諷喩法と隱喩法との關係についてに、ケームズの説穩當なり。曰はく「諷喩法と隱喩法とは別なり。而して予の詞姿と呼ばんと欲するものはまた此二者とも別なり。予は進みて此等の區別を説明すべし。上にも定釋せる如く、隱喩法は想像上の作用より來たるものにして、一物な他物に比喩するなり。諷喩法にはかゝる作用な要ぜす。又は一物を他物に比喩するに及ばず。本題の性質事情等に類似ぜる他の題目な選み用ひて之れが裏面に本題の意を髣髴せしめ而して本題の實形をば目のあたりより隱れしむるを主とす。斯くて讀者自ら本題の裏面に隠れたる本意な見出だすときは之れに對して快感を生すべし何となれば之れを見出ぜるは自己の働きなればなり云々。」(“Elements of Criticism”――Kaimes)
 諷喩法はまた後に論すべき擬人法とも關係すべし。擬人法は劣等のものを高等のものに比し、諷喩は之れに反してむしろ高等のものを劣等物に比するの差別あり。すなはち等しく猿蟹に物言はしむるも、猿蟹の方を主とし、其を人に擬して物いはしむる點に重きを置くは擬人法なり。擬せられたる人を主とし、其の言動意味に重きを置くは諷喩法なり。例へば「猫の戀初手から鳴いて哀れなり」といへるは擬人法にて「鼠とる猫のうしろに犬の居てねらふものこそねらはれにけれ」などいへるは諷喩法なるの類なり。
 諷喩法はまた之れを繪畫彫刻等の上にも表はし得べし。古人が大黑天の像を畫きて「上を見れば限なし」との意を寓せるなどは諷喩法の短きものと見るべきなり。所謂寓意畫といふもの。
(參照) 諷喩法は英語のアレゴリー(Allegory)に相當す。之れに關する規則といふものゝ要、第一喩義の文みづから最も面白く趣味あろやうならんな要す。始より寓意なたどらざれば何の妙もなきが如きもの、又は寓意の淺陋にして一見知れ易きが如きものは詞藻たるの價値なし。寶永落首の一に「犬はなき民は悦ぶ丑の年ながき返報に糞な喰はせん」などいへるは寓意淺薄。犬公方の末事を譏れるものといふことを取り除かば、文其のものゝ上にはなどの妙味もなり。第二喩義の文と本意とは餘りに懸け離れざるやうに注意すべし。蓋し直喩法隱喩法等にありては、喩義の文中多少本義に關聨せる文字あるを常とすれど、諷喩法にありては全然本義を言外に退くるを目的とするがゆえに讀む人の心々にて如何樣にも解ぜらるゝことあるべければなり。
TOPへ
『新美辭學』のトップ
次へ