島村抱月,島村瀧太郎,『新美辭學』,新美辭學,明治,明治時代,レトリック,修辞,修辞学,比喩,縦書き,タテ書き,たて書き,たてがき,文学,文芸,小説,読み物,和歌,学芸,文芸作品,著作,著述

  第二章 詞藻論

第七節 譬喩法

第二項 隱喩法

  隱喩法は直喩法とともに詞藻中最も廣く用ひらるゝものにして譬喩法の本部たり。されば此の二喩を除かば殆ど文章の修飾なきに至るべし。隱喩法とは直喩に反して比喩の比喩たる處を埋沒したるものなり。「如し」「似たり」等の論明詞を籍らざるは勿論、喩義と本義との區別をさへ全く隱して、二事件を打ち混じ一に言ひ倣すものなり。例へば「袖に露おく」「心に劒をふくんだる女」などいへる類正當には「露のおけるが如く涙袖を濡らす」「心に劒の如く人を害するの念をふくんだる女」などあるべきを斯くては尋常の直喩たるに終りて文勢弛むの恐あり、此をもて之れを引き約めて涙と露と又は劒と害心とを一に言ひ做したるなり。されば一方よりいふときは隱喩法はまた直喩法の緊縮せられ省略せられたるものといふべし緊縮省略は隱喩法の一特色なり。涙に關する思想に、かけ離れたる露といふ思想を加へたるは想念の增加に外なけれど隱喩法はさらに之れを緊紮して用ふるなり。さて隱喩法の例は、 「憑む木の下に雨漏りし如く、我が賴みとせし人の心變ぜしより」といふべきを、喩義を直ちに本義の如く言い做して「憑む樹の下雨漏りしより」とせる所に特殊の情味を加えしなり。本義を隱して喩義に兩意を緊紮せるものといふべし。
 此は西鶴が文中、情趣高まりて殆んど律格を有するに至らんとせる佳句の例なり。「名を流す」といへるは、「名を傳ふること水の流るゝが如し」との義を縮めたるなり。「戀の新川」といふも戀のつゞきと川の流れとを兼ねたるもの、「思を載せて」も思ひと荷物とを兼ねたるもの、皆隱喩法たり。
點を施せる箇所すべて喩義を本義の如く書き下せるところに隠喩法あるなり。  表面はたゞ松柏の事を言へるが如くして、實は其の裏に之れを節義の士に喩ふるの意簿れるなり。
 隠喩法はまた分かちて單語より成れおものと複雑なるものとの二種とするを得べし。「法を破る」「志を立つ」等の類はそが單純なるものにして一派の修辭家が轉義(トロープ)と稱するものに屬す。「國連既に傾きぬ一木の能く支ふる所ならんや」などといへるは、二以上の喩を重ねて一章の喩を全ふせるなり。されど要するに此等はさして重きをなさゞる分類たり。また隱喩法と後に説くべき擬人法とは見わけがたき場合多し。例へば「濁浪空を排す」といふときは浪を生あるものに喩へ其が手を以て天を排すとの義にして所謂擬人法なれども、又他方より見るときは浪と活物とを一に言ひなしたる隱喩法の類、これらは其の特色むしろ浪と活人とを一に言ひ倣したる邊よりも浪と活人と見立てたる處にあるべければ隱喩法に屬せしめすして擬人法とするを至當とす。
 科學上に隱喩を用ふるの例は解剖學、生理學等に多し、松果に似たるものを松果腺といひ喇叭に似たるものを喇叭管といひ臼に似たるを臼骨といひ窠に似たるを眼窠といふたぐひ是れなり。
 直喩法と隱喩法とに就きていふときは、一般に隱喩法のかた其價値高し。蓋し直喩法は何人も容易に之れを用ひ得れど、隱喩法を完全に用ひんには、幾分の熟練を要す、詞藻に乏しき作者の文には隱喩上の缺點多きを常とするなり。  直喩隠喩を混用することあるはホェートリーの云へる如し。而して巧みに之れを用ふるときは、文情縈紆して妙文をなすことあり。近松の作などに此の例多し。彼の絶唱と稱せらるゝ
といふ句の如き、すなはち其の例にして、「死に行く身を譬ふれば、あだしが原の道の霜」しといふは直喩法なれども、之れに引きつゞきて「一足づゝに消えて行く」とあるは「霜の消ゆるが如く人の身も消えゆく」といふべきを前の句の説明辭に讓りて隱喩法に入れるなり。
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