島村抱月,島村瀧太郎,『新美辭學』,新美辭學,明治,明治時代,レトリック,修辞,修辞学,比喩,縦書き,タテ書き,たて書き,たてがき,文学,文芸,小説,読み物,和歌,学芸,文芸作品,著作,著述

  第二章 詞藻論

第六節 積極的語彩

 積極的想彩すなはち想念の理想的發展の方式を四つに分かつこと前に言へるが如し。其の一、譬喩法とは、想念が斯くの如き發展をなすにあたり、必要なる限り同一情趣の下に新想念を附加し來たるの謂ひにして、之れによりて原想念の情を豊富にし、種々の面より之れを結體せしめんとするの修辭法なり。此は修辭過程中最も有力且つ普通なるものにして、例へば「涙雨の如し」といふときは、單に「涙下る」といふ思想を強めんがため、其の滴下するさまの潜漣として繁き點に類似を求め、此の點に於いてのみ情趣を同じくする雨といふ全く別種の想念を僦ひ來たり、涙の繁きさまに對する情に雨の繁きさまの情を附加したる譬喩法なり。これ吾人の經驗内にては、滴下するものゝ繁き情景は、降雨の際を以て最も切に、一最も感覺を動かし易しとすればなり。最も感覺を動かし易きものゝ最も具象し活現し易きは論なし。
 しかのみならず譬喩より來たる效果は、他にも之れあり。第一は適合の感より來たる快味なり。涙の繁きと雨の繁きと、比し得て恰適なりと、感ずるときは形式美の原理により、適合といふことに一種の快感を生ず。第二には適合感の裏面また發見の快感を伴う。發見の快感とは、吾人が知識慾の滿足より來たるの情にして、新しき智識を得たるときの喜びなり。即ち雨と涙とは、本來全く懸絶せるものなるがゆゑに、平生は二者の間に何の關係ありとも氣つかざりしものが、一朝文章家のために其の滴下することの繁き點に關係を示され、こゝに新關係發見の快味を覺ゆるの類なり。第三には心的活動の範圍を擴張し得たるの快感あり。すべて吾人の心は或る程限を超えざる限り、活動の盛大なるに從ひます〳〵暢達して快活の感を伴ふものなり。されば初め原想念のといふ範圍のみなりしものが、後廣まりて雨といふ新想念を得しめ、活動の量を增して、心的生活の盛大を感ずるに至る。以上は一切の譬喩法が修辭上に及ぼす效果の主たるものなり。  其の二は化成法といふべし。想念の變形によりて其が理想的發展を遂ぐるの用をなす。たとへば「風叫ぶ」といふときは「風、物を鳴らす」又は「風鳴る」といふべきを情の高まれる態度に應じて、さながら生あるものゝ暴れ狂ふが如く言ひ出だせること、即ち無生物に關する想念を情のために生物化せる所に修辭の價値あるなり。
 其の三は布置法なり。想念の組み合はせによりて之れを結體せしめんとす。「其の言哀しむべし」といふ平叙文を「哀しむべし其の言」と轉倒せるため、修飾ある文となれるが如き、または「老幼みな行く」といふを「老も行き幼も行く」と改むれば、對偶若しくは封照の理によりて一の趣致を生するが如き、此の例なり。
 其の四は表出法なり。想念表出の態度に基づくものにして、「滿つれば却りて虧くるの恐れあり」といふべきを、殊さらに思想の態度を奇警にし「滿つるは虧くるなり」などいふときの修辭法これなり。此の如きは情のかたまれる結果おのづから想念が意義を變ずるの化成法と異なりて、むしろ同一想念が命題を組織するの形式を變ずるものといふべし。此に於いてか、一見その形式の尋常ならざるかために注意若しくは情を刺戟すること強く思想の結體に一層の利を加ふるなり。
 以下順を追ひて細説すべし。