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  第二章 詞藻論

第一節 消極的語彩

第一項 語句の純正

(一)他國語の混入

 他國語の混入のために不純正となるの例は極めて多し。かの『源氏物語』中の名高き一節に、去る婦人の言として
聲もはやりかにて言ふやう、月ごろ風病にて重きにたへかねて極熱の草藥をぶくして()と口臭きによりてなん、得對面たまはらぬ。目のあたりならずともさるべからん雜事(ざうじ)()承はらんと、いと哀にうべ〳〵しく言ひ侍り。
などいへるたぐひは、日本語格の中に漢語を挿入せるより起こりし文章上の缺點なり。勿論作者は之れを滑稽の意にて描けるなれば、其の缺點あるところが文の妙なる所以なれども、さる場合と茲に論ずるところとは觀察點を異にす。『源氏物語』は之れを詞藻として用ひたるものなれば、夫の語趣に基づける語彩法として、是等の漢語の背景たる、學者、莊重などいふ情趣を利用し、之れを前後の女性的凡俗的なる語格情態と對照せしめて、學者ぶる女、莊重なる女性、不釣合、不相當などいふ感を刺戟せんとせるものなり。されど若し此等の事情を離れて、眞面目に此くの如き文辭を用ふるものありとせば、是れ文章中に國語的慣例の文脈と調和せざる外國語を挿入せる不純正の弊に陷れるものなり。
 外國語といへども熟して標準語の中に入れるものなるときは、不妥の念消えて、穩當なる平叙文と見らるゝに至る。數學書生が零といふべきを「ゼロ」といひ加減といふべきを「プラス、マイナス」といふが如き、又世間にて洋燈を「ランプ」といひ煙草を「タバコ」といふが如きは殆ど熟して國語の慣例内に入れるがため不純粹といふべからざることあり。「云々となり得るの素あり」といふべきを「云々のポツシビリチーあり」といふは繁を避けて簡に就けるの效によりて不純正の嫌を掩へるものなり。哲學上儀範、範疇、儀表などいはすしてカテゴリーといふの、其の社會には解し易きが如き、また適當なる譯語なき場合に於ける同一の例たり。
 其の他「極めて妙なり」といふべきを「極めて妙了」といひ「人間は神の子なり」といふべきを「人間はゴツドのサン」なりといふが如きは弊なり。たゞ我が國語と漢語とは歴史上特別の關係を有するが故に、一概に漢語混入を以て國文の純正を害する者とは言ひがたし。巧に漢語を國文格中に挿入して調和せしむるを得ば寧ろ之れを用ひて國文の缺點を補ふ可きなり。漢語と國文との關係は例へば英國文と羅典語佛語等との關係などと異なる所にあるや勿論たり。
 次には外國の句法文格によりて國文を綴りしが爲に不純正の弊に陷れるもの。但しこれまた現時のわが文壇にては全く批難し得ざる事情なきに非ず。蓋しわが國目下の文章は、正に衆美を集めて改善の途に上るべき潮境にある者なれば外國の文絡も調和し得ん限りは之れを取り入るゝを妨げず。即ち慣例の未だ確定せざる狀態なり。殊に外國の句法といふうちにも、漢文格と國文とは別樣の關係あること猶漢語の場合に於けるが如くなれば、今日の漢文體の如きは、必ずしも拒斥するを得ず。たゞ進歩せる鑑識よりいふ時は、甚しき漢文直鐸體などいふものは望ましき者にあらず。又洋文の句法を國文に亂用するの弊は今日の文章界に最も大なり。「死に就けり」といふべきを「死によりて迎へられたり」といひ「楯に載りて還らんと本國を立ち出でぬ」といふべきを「楯に載せられて還るべく本國を見棄てぬ」などいふは文品如何にも雜駁且つ幼穉にして見にくし。
 是等みな吾人が之れを修辭上の弊と感するの理は、上に言へる所と同一なり。隨つて勢力ある人が之れを用ひしため、又は其の他の事情によりて遂に世に行はれ、人耳に熟するに至れば、其の不純正と見られしものもおのづから移りて純正と見らるゝに至るべし。此の際に於ける標準は時と共に遷轉すべきものたること勿論なり。上の例に於いても「死によりて迎へられたり」などいふ句法は、本來日本の句法中非情物、殊に無形なる「死」などいふものを人化してはたらかしむることの少なきと、「迎へらる」などいふ所動的描寫を用ふること少なきとによりて、當初こそ不調和にも聞こえたれど、今日にては早くすでに人耳に熟せんとするに至れり。歐文の句法を混じて往々不純正の病にかゝれるは、夫の基督敎の聖書の文など其の一例なり。
 古の人に告げて殺すこと勿れ、殺す者は審判(さばき)(あづか)らんといへることあるは、爾曹(なんぢら)が聞きし所なり。されど我なんぢらに告げん。凡て故なくして其の兄弟を怒る者は審判(さばき)(あづか)らん。又その兄弟を愚者(おろかもの)よといふものは集議に(あづか)らん。又狂妄(しれもの)よといふものは地獄の火に(あづか)るべし。(『新約全書』馬太傳)
などいへる、「さばきにあづからん」「集議にあづからん」等はなほ可なりとするも、「兄弟を怒る」「地獄の火にあづかる」等に至りては、明かに日本文の慣例にたがへる句法なるが爲め、雜駁の嫌を生ぜしなり。是れ一は英語にて‘shall be in danger of’とあるを凡て「あづかる」と譯せんとして「さばき(judgement)にあづかる」「集議(council)にあづかる」「地獄の火(hell fire)にあづかる」といふが如き直譯體のものを生するに至りしに外ならず。「さばきにあづからん(今日ならば、裁判を受けん裁判を受くるの災ひあらん、などいふべし)」「評議を受けん」「地獄の火に燒かれん」など言ひかへてこそ、始めて純正の國文格に合ふものとはいふべけれ。支那にて之れを、「必當受判」「就當送到公堂裏」「就當下在地獄的火裏」など譯せるは、能く其の意を得たるものといふべし。また「兄弟を怒る」は英國の‘is angry with his brother’を譯せるものにして、支那の「向兄弟動怒」といへると同じく「兄弟に對して怒る」などいふを穩當とすべきなり。
(參照) クワッケンボス氏の書によるに、當時英来にては佛語を英語中に挿入するの風(Gallicism)盛にして、中には已むを得ざるものもあれど、多くは衒耀的、したがつて不純正の弊に陷れるものなりとて、其の主なる例語十七八た擧げれり。Fashionable worldというべき殊更にをBeau mondeといひ、Stroke of state policyといふべきをCoup d' etatといひ、People of fashionといふべきをHant tonといひ、No matterといふべきをN' importeといふの類その一斑なり。されど此等の中にも恐らく今日にありてに既に不純粋の域な脱しれるものあらん。
 我が邦にては、維新以來、いはゆる書生語の社會上下に行きわたりてより、俗談平語の上にまで漢語の混入が漸く人耳に慣るゝに至りたれど、然も爾ほ學問なき人が殊更らに漢語な衒はんとして用ふる場合、または婦人があまりに多く之れを用ふる場合などには、往々異樣の感た起こすことあり。此等みな不純性といふ現象を呈せるの證なり。
同じく英語にて外國の句法の混入せる例には、‘He knows how to sing.’といふべきを‘He knows to sing.’といひ‘I repent.’と云ふべきを‘It repents me.’といふの類な擧げれたり。此は日本の學生にして英語に未熟なるものが英文な作るあたり往々にして日本の句法そのまゝを英譯するの場合にも見らゝる弊にして、「あの橋は鐵でこしらへれものだ」といふべきを、日本特有の古法にてに「あの橋は鐵だ」といふ。乃ち之れな直譯して‘The bridge is iron.’といふの類これなれなり。また邦人が漢文を作るにあたりても,同一の例はしば〳〵あらはる。殊に上古の漢文には、この事多し。『古事記』に「此三柱神者、並獨神成坐而隱身也」などあるは、殆ど漢文といふべからざるものなり。
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