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  第三章 美辭學の變遷

第一節 西洋美辭學

西洋美辭學の四期 ――アリストートル ――クヰンチーリアン ――べーコン ――最近世の三家 ――古今美辭學の變遷四條 ――其傾向
 美辭學を一科の學として硏究したるの祖は西洋なり。支那にも古くより之れに關する斷片の思想は發生したりしを見れど、系統ある一科の學は遂に生ずることなかりき。強いて求めば、後の文話文法書類の如きもの之れに近からん。我が邦に至りしは、さらに多く之れを缺けり。
 西洋に於ける美辭學の始めて學問たる價値を有するに至りしは、一切學問の祖と稱せらるゝ希臘のアリストートルが效なり。されど之れに先だちて種々なる斯學の萠芽發生したりし概略を、クヰンチーリアン等が記するところによりて一言すべし。由來西洋の美辭學史は、 之れを四期に分かつを得べし。第一期は希臘時代なり第二期は羅馬なり。第三期は中世なり。第四期は近世なり。希臘の美辭學はアリストートルを中心とすること勿論なれど、其の以前、初の修辭論者として知らるゝものは、哲學者として有名なる夫のエムペドクリーズ(Empedocles西紀前四四〇頃)なり。彼れは當時「譬喩を用ふるに熟練なる語法家」とたゞへられきといふ。されど精しきことは知るべからす。其の他コラクス(Corax)チシアス(Tisias)などいふ人々は、修辭を一の術として、之れが規則を立てなどし、プロタゴラス(Protagoras)ゴージアス(Gorgias)また少しく後れて、他の多くの修辭家と共に、大哲ソクラテースと時を同じくして榮へたりといふ。此の中稍々注意すべきはコラクスなるべし。コラクス時代に修辭が一の術として榮へたりし由來を案ずるに、この頃サイラキュースの君主制度倒れて、新に共和の政を布けるに際し、さきに專制政府のために産を奪はれし共和黨の亡命者等が績々返り來たりて財産囘復の訴訟を起こし、訟庭に辯論を闘はすの風盛なりしため、おのづから辯論を專門の技藝として硏究するものあるに至りしなり。故に此の時代の修辭論は、構辯爭訟の術なりきといふを得べし。例へば弱者もし強者より毆打の訴を受くるときは、弱者は「弱者が強者を毆打すといふことは、事實あり得ざることならすや」と辯護するたぐひ、之れをコラクスの蓋然論法といへり。蓋し一種の詭辯なり。又コラクスは文辭を分かちて詩、物語、辯論、助詞、結語の五とせりといふ。
 續いてはスラシマカス(Thrasymachus)ブロヂカス(Prodicus)アンチホン(Antiyhon西紀前四八〇 ――四一一)等あり。アンチホンは當時アツチカ雄辯家の隨一と稱せられ、始めて修辭論に理論上の硏究を加へんとしたるものにして、其の著の趣意はコラクスの蓋然論法などに本づけるものなりきといふ。また始めて其の辯説を筆寫して賣り與へ法廷に出つるものゝ便に供したるも彼れなりきといふ。ついでアイソクラチーズ(Isocrates西紀前四三六―三三八)出でで修辭學を敎授せし頃より、修辭學は漸く敎育上重要のものと見倣さるゝに至れり。これ當時誰辯を弄して眞理を誣ひ信仰を破り社會を堕落に導かんとするものゝ日に多きを憂ひて、之れを救ふべき方便として辯析究理の術を必要なる敎育の一科とするに至れるなり。これより後永く修辭學は敎育上の要地を占ひるに至りぬ。其の他アナキシメイニース(Anaximenes)また修辭學の著ありといふ。
 アイソクラチーズの後に出でしはアリストートル(西紀前三八五 ――三二二)なり。彼れは修辭學を毎日午後の敎課として學徒に授けしが、常に「我等默々としてひとりアイソクラチーズをして言はしむるは耻辱なりしと唱へて學徒を勵ましきといふ。其の書「修辭學」(“Rhetoric”)が下せる斯學の定義は第二章第一節に引ける所の如し。即ち歸するところは觀説の術なりといふにあり。而して觀説の方法に實證を示して人を服せしむるものと、辯説によりて人を服せしむるものとの二あり。修辭學は其の辯説による勸説法にして、之れが方法に説者の性格に依るものと、聽者の感情に訴ふるものと、説そのものゝ力に基づくものと三あり。また辯説の種類にも、勘考的、判決的、論證的の三ありて、勘考的辯説は推奬と諫止とより成り、判決的辯説は告發と辯護とより成り、論證的辯論は賞揚と貶下とより成ると。其の他アリストートルは修辭學を以て論理學と相類したるものとし、兩者共に事件の内容には關することなく、如何なる題目にも適用せらるべき形式的のものとせり。此に於いてか、斯の學は全く思想の産出に影響なくまた善惡眞妄に關係なきものとなり、其の有用無用すら疑はしきものと考へらるゝに至れり。すなはち古代の修辭學者が好んで論議せし修辭學の效益如何といふ問題は是れより生ぜしなり。アリストートルは之れを有用なりとするの理由を數へて以爲へらく、眞理正義は本來謬論よりも強き筈なれば、修辯力を借らざるもよく勝利を制することはあるべけれど、斯くの如きは辯論家の無能を表すものたれば、必ずや辭を練りて之れを推闡するに力めざるべからす。また學問上の知識あるものに眞理を教ふるは易けれども、此は多數の人に望み雜きことなれば、衆人に對しては殊に修辭の力を借るの要あり。また三段論法と同じく、啻に眞理のみならず、其の反對なる妄論をも證するがために修辭の要あり、其は他が妄論をなす時これによりて其の妄論を破し以て自ら衞るの具たるべければなりと。また彼れは美辭學を演説作文の二部にわたりて論じ、前者には主として聲音の抑揚などを論じ、後者には語法、文體、文質等を論ぜり。
 アリストートルの後には、セオデクチーズ(Theodectes)セオフラスタス(Theophrastus)等あり。此の頃より哲學者の修辭學に注意するもの益多く專門の修辭家よりも,却りて哲學者の方に之れが硏究盛なりきといふ。隨つて修辭學者と哲學者とは同一視せられたり。つゞいてはアポロドラス(Apollodorus)とセオドラス(Theodorus)との二人相對峙して名あり。兩派學風を異にして相競ひたりといふ。其の詳細は知るを得ざれど、當時の修辭學におのづから實際派と理論派との二面ありしがごとくなれば、上の兩派の爭ひし所も多く此等の相違にありしか。ヘルマゴラス(Helmagorus)また實際的と理論的との兩面を折衷して、學者派ともいふべき一派を創したりと稱せらる。羅馬に傅はりし修辭學は、主として此の派なりきといふ。次に第二期すなはち羅馬時代となりて、始めて修辭の事を論ぜしは、ケートー(Cato)アントニアス(Marcus Antonius)等にして、次いで諸多の修辭家出でたるが、中について最も著名なるをシセロ(Cicero西紀前一〇六―四三)クヰンチーリアン(Quintilian西紀四二―一一八)の二人とす。羅馬の修辭學は此の二家を以て代表するを得べし。
 シセロには『雄辯法』(“De oratore”)の著あり。彼れは寧ろ學説よりも、實行の上に秀でたる人にして、アリストートルの修辭學を實行したる人と稱せらる。其の書またアリストートル、アイソクラチーズ等の説を(ママ)衍したるものといふべく、書中に「我が意にては、雄辯家たらんとするものは如何なる才能を有するに拘らず必ず凡百の重要なる智識學藝に通するものならざるべからす。然らずんば其の辯の華麗と富贍とは、得て望むべからざればなり。蓋し辯者の心に得たる所ありて、而して表面に之れを見はさゞるの準備ありて、始めて其の辯は空虛ならざるを得べし」。などいへるに見るも、其學説の新奇なるものに非ざりしは察せらる。
 クヰンチーリアンは羅馬隨一の修辭學者語法學者にして,其の著『雄辯家教育』(“Education of an Orator”)はアリストートル以後第一の修辭書といふべし。彼れは當時羅馬帝國の修辭學教師たりしが、修辭學といふ中には、哲學、法律、道德、政治學等を含めりといふ。其の書名と地位とに見るも、修辭學が如何に敎育上の要地に立ちしかは察するを得べし。クヰンチーリアンの學説亦隨つて大半は敎育論に入れりと稱せらる。蓋し彼れの學説が著く道徳的傾向を有したりし自然の結果とも見るべし。其の修辭學の效用を論ずる趣意に曰はく、修辭は人生必須の德なるか、はた用不要隨意なるべきものか。アリストー卜ルは德を道德的と知識的との二とし修辭を其の知識的なるものに屬せしめ、眞理推闡の上に缺くべからざるものとしたれど吾人はむしろ進んで修辭を道德的のものと見んとす。吾人は善人としてに非ざれば存立し得ざる底の修辭家を出ださんことを期す。修辭家は完全なる辯説の才あると共に高き心ある人ならんことを要すとされど、修辭の材料を如何なるものにても可なりとするは他と異ならず。其の意に以爲へらく、或は修辭の材料となるべきものを演説なりといひ、勸説的論辯なりといひ、訴訟究問なりといひ、人世凡百に渉るの德なりといふ。思ふに凡そ辯説者の前に現はれ來たる事物は、悉く修辭の材料となすを得べしと。其の他修辭學の硏究方法を説きては、第一に辯説者、第二に辯説術、第三に辯説そのものとすべしといひ、辯説術を定義しては、「如何にして巧みに話すべきかの知識」といひ、また其の最も普通なるものは「勸説の力」といふに歸すといひ、修辭學の性質を論じては、凡そ技術に三ありて、單に之れに關する知識を得れば足るもの、例へば天文學などの如きと、知識の上に實行を要するもの、例へば舞踏の如きと、知識實行の上に更に製作物を残留するもの、例へば繪畫の如きとの中、修辭は第二者すなはち知識と實行とを要するものなりとせり。又修辭の手段には工風、整理、標現、記憶、發表ありて修辭の種類に聽者を満足せしむれば足るものと、商量をなさしむるものと、裁斷をなさしむるものとありとせり。之れを要するに大體に於いては羅馬の修辭學と希臘の修辭學と相通じ、アリストートル以外に出でし點は少なし。たゞアリストートルにありては大に形式的なりしものが、シセロ、クヰンチーリアンに及びて、道德と著く接迅し修辭學はやがて人格修養の學なるが如く解せられんとせしを、羅馬修辭學の特色とすべし。其の他、當時は修辭學の教師をソフヰスト(Sophist)と稍し、學者の尊稱とせりといふ。但し此の名後に及びては却りて輕悔の意を含みて詭辯家すなはち理を非に言ひ曲ぐるものなりとの義を有するに至れり。
 第三期即ち中世紀に及びても、語法、論理と竝びて、修辭は大學の必修課程とせられ、依然敎育修身の上に重要の地位を保ちたり。これ蓋し羅馬の遺風によりしものにて、十八世紀頃までもオクスフォード、ケムブリヅヂなどには修辭學の科ありしが、遂にやみたり。
  次に第四期近世の始め文藝復輿の後、十六世紀の中頃には英國にレオナルド、コックスの『修辭術』(“Art of Rhetoric” ――Leonard Cox)卜ーマス、ウヰルソンの『修辭術』(“Art of Rhatoric” ――Thomas Willson)等出でたるが、後者は殆んど全くアリストートル、クヰンチーリアン等を祖術せるもの、前者は多少の新意あり。されど要するに全體に於いて學祖アリストートルを多く脱せしものにはあらず。たゞベーコン(“Antitheta” ――Becon)の修辭論中多少注目すべきものあり。彼れ以爲へらく、「修辭の任務は想像に推理を加へて意志を動かすにあり。蓋し辯爭いて理の妨けらるゝは常に詭辯の累ひ、即ち論理に關する方面と、想像既ち修辭に關する方面と、感情即ち道德に關する方面との三に依るが如し」と。知情意の三面にわたるべしといふと共に、暗に情の一面想像の一面を修辭の本領とするの見を抱けるものといふべし。またおもへらく、アリストートルは修辭を論理と道德との間に立て、双方に與かるものとしたるが、論理と修辭との差別は、論理にありては其の立證論究の方法が何人にも同一なるべきと、修辭にありては、立證勸説の方法が人によりて異なるべきとにありと。
 最近一二紀にありては斯學に關する書の出でたるもの極めて多し。英國にありては就中カムベルが『修辭哲學』(“Philosophe of Rhetoric” ――Camplell)ブレイアが『修辭學講義』(“Leetures on Rhetoric” ―Blair)ホエートリーが『修辭學原理』(“Elements of Rhetoric” ――Whately)の三を近世修辭學の先達とす。カムベルの書は稍乾燥の嫌ひあれども、修辭學の本領を純粹なる文學の方面に置かんとせるの特色あり。ホエートリーの説によるときは、當時カムベルの書がブレイアの書に比して聲價甚だ高からざりしは、書名の哲學と題せらしため、實地に濶れるものゝ如く誤解せられしに由るならんと。ブレイアの書は小册子なれども能く其の要をつくして、美學的批評的と評せらる。ホエートリーの書は最も論理的なる點に於いて勝り、修辭學と論理學と二致なきが如く説けるものなること前にも言へるが如し。其の他ケームズが『批評原理』(“Elemenrs of Criticism” ――Kaimes)中の詞藻論、マルレーが『英語法』(“English Grammar” ――Murley)中の詩形論等も典據たるべきものなり。最近にてはベイン氏(“English Composition and Rhetoric” ――Bain)ヒル氏(“Science of Rhetoric” ――Hill)バスコム氏(“Philosophy of Rhetoric” ――“Bascom”)ヘーヴン氏(“Rhetoric” ――Haven)クログ氏(“Text-book of rhetoric”――Kellog)等枚擧に遑あらず。されど要するに大同小異なりといべし。今上代修辭學と近世修辭學との主なる變遷を察するに、第一、修辭學の本領に關して、希臘は全く形式論に立ち思想の眞妄善悪とは相わたらず、また如何なる部類の思想にも通ずるものと見たれど、羅馬は少しく其の意義を變じて、如何なる部類の思想にも通ずると共に、其の思想また眞ならざるべからす、善ならざるべからずとせり。此に於いてか、羅馬にありては、修辭學は直ちに一切の學術が其の眞を究め善を極めんとするの工風と相合し、形式的なりしものは一轉して内容的に、しかも一切種々の内容に關すべきものとなり、修辭といふ名の下には法律も哲學も倫理も來り投ずるを得るものとなれり。されど斯くの如きは固より一修辭學の能く堪ふる所にあらざるが故に、學術の發達と共に此等の諸學科みな獨立の本領を有して分離せんとするに至り、こゝに修辭學は空なる殘骸となりて衰癈せんとしたり。近世の修辭學はすなはち此の衰殘の後に立ちて、むしろ再び希臘の古に近づき、他の一切の學術を離れて、獨立せる形式的の一學科たるに至れり。是れやがて一面には辭の美が如何なる思想にも帶着せられ得ることを證するもの。
 第二は修辭學の性質に關して、古代は概して之れを技術とし近世に至りて學問たるの一面をも加へんとせるは、其の修辭哲學、修辭科學などいふ書名の見はれしに徴するも明かなり。されど多くは應用科學などいふものに類へて、學と術との兩面を具せしめたること前にいへるが如し。而して既に術の一面を具する以上、修辭學者は必ず之れによりて能文家たらざるを得ざるの理なるに、事實の必ずしも然らざるは、修辭學の世に輕んぜられし一因たり。且つ術としては勢ひ卑近ならざるを得ざるが故に、學としての一面がひとり深邃なるを得ず、これまた斯の學の甚だ重きをなさゞる所以なるべし。吾人の見るところを以てするときは、修辭學は純然たる科學として、美學の一部を成すべきものなり。此の方向に硏究の歩を進めて、始めて生命あるを得べし。
 第三は修辭學の標的に關して、古代は勸説法若しくは論證法の硏究といふに重を置きたれど、近代は鑑賞的すなはち美感の方面に重きを置くに至れり。固より論證勸説も全く、之を説かざるにはあらねど、標的とする處の中心おのづから遷移し、隨つて修辭學の態度も變じたり。約言すれば修辭學が美學に接辺するの端をなせるものなり。
 第四は修辭學の材料に關して、上代は演説、訟爭、議論等、口述のものを主とし、近代は殆ど全く文章詩歌のみを材料とするに至れり。これ固より當然の數して、修辭學が主として文學の野に立つべき理を示せるものなり。修辭學を文章學といひて可なるの傾向を示せるものなり。
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