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 第五十一章 修飾論結收

一一四 詞姿修飾は文章を美はしくするものである、けれども漫りに文飾を用ゐる眞に文を美はしくする所以の道ではない。詞姿は文の利器である、されども其の用を誤れば、我が思想を防衞し修飾し得ざるのみか、却つて自ら傷つくるの結果を見ることがある。文を學ぶ者は常に詞姿を用ゐる場合に注意せねばならぬ。

 詞姿を用ゐるに當たつて注意すべきことが凡そ三件ある。第一は精明純穩の基礎的要求を滿たし得て後に文飾を用ゐべきこと、詞姿は正しき文章を裝ふべき冠で瑕疵を蔽ひかくす被覆にあらざることである。第二情感の文に用ゐべして、知解の文に濫用すべからさることであることである。知解の文に於いては精明透徹其の極致をなすというてもよい。理路の精透は知の文に取つて已に一種の修飾である、飾なきが寧ろ飾である。例へば、律令の文に詞姿を用ゐる如きは益なくして害あるもの、地質學、測量學の著述に於ける富士山の記實に伏せた摺鉢倒まにかけた白扇を引き出し、外科手術の說明書に血流れて海を成すといふは、失當の甚だしきものである。情感の要素に富んだ歴史の文章などでも、事實の考究を主とする史論に於いて、「若し北朝を以て正統となさば新田楠諸公を以て亂臣賊子となすか。」といふ如き山陽流の喧嘩腰的氣熖調を用ゐ、或は「日本武士にかゝる敗德の行爲ある理あらむや。」「國初以家深く人心に染みたる神祗崇拜の習俗の、いかでか一朝にして失はるべき。知らずや、我が國體は祭神を基として成りぬ。」といふ如き感情的讀斷調を用ゐるは決して稱すべきことではない。第三は、場合により主題の性質によつてそれ〴〵に適切穩當なる詞姿を用ゐべきこと、要するに何人が何人に向つて何時何處にて如何なることを如何樣にいふか、即ち所謂六何を精察して最も穩當なる所に筆を着けること、詞姿使用の極意、此の外に出でぬ。
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