第七 主として順感の原理に基ける詞姿

 第四十五章 咏法

一〇五 切なる思ひ胸に滿ちて之れを語り得ざる時は之れを咏の聲に漏らし、之れを語りて盡くし得ざる時は添ふるに咏の語を以てする。咏法は此の人性の上に立つ詞姿で、從つて常に深き高きき激しき感情を表はすに用ゐらるゝ。此の注の形式は一樣でない、或は平叙文の前後に「あはれ」「鳴呼」「かな」「かも」「や」「よ」等の感投詞の添うたのもあり、主語、術語、客語より成る通常の形式によらずして嗟の語のみより成るのもあり、又疑問式にして嗟の實があるものもある。「此め花の思ふことなげに美はしきかな。」「賢なるかな回や。」の如きは第一の例、「人知れぬ思ひかな。」「誼ふべき世の中よ。」の如きは第二の例、「天道は是か罪か。」「美はしきものなどて脆き。」の如きは第三の例である。 深き感情を簡単なる語に寓する鮎に於いて、咏法は謠かに優つて居る。安原貞室の「これはとばかり花の芳野山。」と淸水濱臣が之れに摸したる「みよし野の芳野の山の花ざかりしばし物こそいはれざりけれ。」とを較ぶれば詞は同じくれて居りながら後が語多くして餘韻少なく、到底前の敵にあらざることが明らである。されども、咏法は止むを得ざる場合にたま用ゐて始めて効あるもので、漫りに多く用ゐべきものではない「あはれ憂き世や、厭ふべき世なるかな。」といふ風に「あはれ」「かな」「!」だらけの文章は、人をして眉を顰めしむる。西洋にてもかゝる文をば咏體というて之れを卑しみ、又咏は欠伸あくび咳嗽せきくさみ同樣のもので言葉ではないとて、「!」印のある部分をいて讀むことを主義とする人もある。要するに、咏法はの如く、抑へきれぬ場合に用ゐて始めて効力あるものである。