第七 主として順感の原理に基ける詞姿

 第四十二章 對偶法

九九 對偶法はまた對句法ともいふ、調子の類似した文句を並列して並行の美、對立の美を成す詞姿である。故にまた調子の上の反覆法というてもよい。此の法は對照法と頗る相類似して居るが、對照法の標準は相對せしむる事物の性質の異同にあつて調子の異同にあらず、對偶法の標準は調子の異同にあつて性質の異同にあらず。此の點に於いて二共に混すべからざる特色を備へて居る。對偶法には二句だけで對をなして居るのもあり、三句以上相封して居るのもあり、二個以上の對句が一團をなして更に他の一團と對偶して居るのもある。又同性の事物相對することもあれば異牲の事物の對峙することもある。例へば「花霞の如く、人雲に似たり。」「鐵蹄蹂す八州の草、白羽指揮す三越の雲。」「夜坐厭はず湖上の月、晝行厭はず湖上の山。」の如きは同性の事二句相對したるもの、「甘言は作り、直言は友を失ふ。」「名利の千金は頂を撫づるよりも易く、善根の半錢は爪を放つよりもし。」「今年の花は去年の好きに似たり、去年の人は今年に至つて老ゆ。」の如きは對隅の事二句相對したるものである。「伊勢もの、伊勢のの、淸き汀の潮がひに、なのりそや摘まむ、貝や拾はむ、玉や拾はむ。」は三句の對偶、「我れ一たび膝を屈せば則ち梓宮還るべし、太后復すべし、太后服すべし、淵聖歸るべし、中原得べし。」は四句の對偶、「今、佛世奪大法をき、大法雨をらし大法螺を吹き、大法鼓をち、大法義を演べむと欲す。」は五句の對偶である。又「用水惡水灌漑排除を考究す。」「耳も目も聾ひず霞まず。」といふが如く、交互に隔地した對句もある。對句法の例左に、
  • せんざい、せんざい、せんざいや、千とせのせんざいや、ほせんざい。」。萬歳、萬歳、まんざいや、ようづよの萬歳や、ほ萬歳。(神樂歌「千歳ちとせ」)
  • 古の事をも筆の跡にあらはし、行きて見ぬ境をも宿ながら知るは、たゞ此の道なり。しかのみならず花は木ごとに咲きてつひに心の山を飾り、露は草の葉よも積もりて言葉のとなる。しかはあれど波江のあまの藻汐は汲めども沈ゆることなく、筑波山の松のつま木は拾へどもなほしげし。生まれ生まれて生の初めを知らず、死し死して死の終はりをもわきまへず、三途つひの住家にあらず、めぐりと廻る處皆しばしのほどの宿りなり。(西行『撰集抄』)
  • さとられつる上からは、何をかつゝみ申すべき。我れ御身と契りを結び、此の寳闕に往してより、に三さいを經つれども、歡樂長へまどかにして雜念ぞうねんいさゝめにも動きしことなし。朝には金丹、石髄を服し、夕には玉酒、瓊漿を味はふ。すがたの花は凋まずして、身は宛然さながらの仙となり、心の悅びはうつゝなれども我が境涯は神に似たり。厭ひ棄てぬる人の世をば、夢にも思ひださゞりしが、御身と同心一體の、其の悅樂の尊さを、深くも悟りし其の頃より、月晴れ渡る夜々よるに不思議や千尋と隔てたる八千重やちへの波の彼方よりほのかに聞こゆるあまの歌、轟く浪に咽びては怨咽をんえちとして怨むが如く遠のく波をくゞりては悠々として憧狂あこがれるゝ凄惨たる肉の聲。斷えなりや腸も、今ぞ始めて哀れさを身に知る雨の故山邊なるさとべりに戀し近顏人ちかうびと。いや懷しき父母かぞいろを忍ぶに餘る思ひなり。(坪内逍遙氏『浦島』)
  • 車を驅りて白羽坂しらはざかを喩えてより回顧橋みかへりばしに三十尺の飛瀑をみて山中の景はじめて奇なり。これより行きて道あれば水あり、水あれば必ず橋あり、全溪にして三十橋。山あれば嚴あり、嚴あれば必ず瀑あり、全嶺にして七十瀑。地あれば泉あり、泉あれば必ず熱湯あり、全村にして四十五湯。なほ數ふれば十二勝、十六名所、七不思議、誰れか一々探り得べき。(尾崎紅葉『金色夜叉』) 三千里外、道相距り、三千年前、時相隔つ。靈鷲の山、月長へに明らかに、恒河の水、昔ながらに流るれども、人は生死の巷に迷ひ、世は盛衰の道を離れず。然れば祇園精舎の花、何時しか色あせて、佛陀伽耶ぶだがやの塔、石に苔あり。今や肅々たる菩提樹の影、羈人杖を停めて低回するも、誰れか大聖釋迦の靈蹟をげ得べき。(高山樗牛『繹迦』)
一〇〇 對偶法は技巧を重んじたる昔の文章家の好んで用ゐたもので、唐彪、クィンチリアン等の名家をはじめ其の究に頭を惱ました學も少なくない。殊に我が弘法大師の如きは、對に二十九種あるというて煩瑣な分類を試みて居る。しかしながら斯樣な管々しい分類は徒らに詳しいばかりで實際上に裨盆があらうとは思はれぬ。又、對偶法は一寸人目を惹く代はり、兎角細工の目に附き易い弱點があり、從つて不自然な人工に氣が留まれば、折角の駢麗均衡が一種の忌昧となつて、作の修辭に役せられた事のみがしく感ぜられるやうになる。例へば、右に擧げた紅葉山人の鹽原記勝の對偶文の如き、「全嶺にして七十瀑」までの二對は自然に、面白く出來て居るが、第三對の「泉あれば必す熱湯あり。」に至ると、細工に窮して、自由に文字をつかひこなせぬ所がありと見えて、やゝもすれば作を憐れみ蔑すむの情さへ起こつて來る。此の文は、本來「泉あれば必ず熱湯なり。」と云はねばならぬので本文のまゝでは「冷泉があれば必す熱湯もある。」といふ意になる。畢竟「水あれば必す橋あり」「嚴あれば必す瀑あり。」の二句に調子を合はせる爲に、無理に斯く並べたので、まだ已に「泉」というた爲めといふ妥當な語を用ゐずして、此の場合に嵌まらぬ普通語の「熱湯い。」を用ゐたのであらう。故に、對偶法の如き細工の勝つた文飾を用ゐる際には、常に自然といふ點に着眼して、成るべく之れを用し、不自然なる人工の目につく恐れのある場合には惜しまず之を切り捨てる覺悟を要する。從つて、表面に顯はれた對偶よりも、對と見えずして而も對して居る方がよい。左の文の如きはそれに庶幾ちかい。
  • 吾人に知職の慾ありて眞理を悟らむことを欲し、道義の念ありて善德を修めむことを望む。是等の欲望の到達せられたる處に一種の快樂あるや素より論無し。然れども、是の種の快樂や極めて淡く、極めて輕く、其の力到底人性の要求を飽足するに足らざるを如何せむ。まことに高深遠なるらしき幾多の文字は、是の種の快樂の讃美に使用せらると雖も、吾人をして忌憚なく言はしむれば、是れ一種の僞善に過ぎざるのみ。哲學書一卷を讀破して未了の知識に逢着する時、快は則ち快ならむも、終日勞し來たうて新浴方に了はり、徐うに一盞の美酒を捧げて淸風江月に對する時と孰れぞ。貧をみ孤を助くる時、快は則ち快ならむも、佳人と携へて芬蘭の室に憑り、陶然として名手の樂に聽く時と孰れぞ。勉學に死し、慈善に狂てするの例は吾人の多く知らざるなりと雖も、戀愛に對しては人生の償値寧ろ輕きを覺ゆるに非ずや。誤つて萬物の靈長と稱せられてより、人は漸く其の動物の本性を暴露するを憚り、自ら求めて、もしくは知らず其の本然の要求に反して僞の生活を營むに至る。而して吾人の見る所を以てすれば、人類をして茲に到らしめたるものは實に人類をして萬物の靈長たらしめたる道德と知識とに外ならず。知らず道德と知識と畢竟何の用ぞ。(高山樗牛「美的生活を論ず」)