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第五 主として融會の原理に基ける詞姿

 第三十四章 漸層法

 七七 漸層法とは語句思想を次第に强く、次第に大きく、次第に深く高く按排する詞姿をいふ。例へば「一人奮死せば以て十に對すべし。十以て百に對すべし。百以て千に對すべし。千以て萬に對すべし。萬以て天下に冠たるべし。」(『韓非子』)といひ、「初めは木綿を着、いつとなく紬となり、又いつとなく絹となり、緞子ぐんちうなどの唐物を貴ぶ樣になり」といひ、「佛曰はく百人の惡人に食を與へむよりは、一人の善人を養ふに若かず。千人の善人に食を與へむよりは、一人の佛の五戒を守る者に食を與ふるに若かず。萬人の佛の五戒を守る者に食を與へむよりは、一人の須陁洹に食を與ふるに若かず。百萬人の須陁洹に食を與へむよりは、一人の阿那含に食を與ふるに若かず。千萬人の阿那含に食を與へむよりは、一人の阿羅漢に食を與ふるに若かず。十億の阿羅漢に食を與へむよりは、一人の辟支佛に食を與ふるに若かず。百億の辟支佛に食を與へむよりは、一人の三界の佛を養ふに若かず。過去、現在、未來、三世の佛千億萬に食を與へむよりは、一人の無念、無住、無修、無證、即ち智識、偏頗、修養、悟、等の上に超脫ぶg脱せし人に食を與ふるに若かず。」といふ類ひで、初句は二句の爲めに準備し、二句三句は三句四句の爲めに地を成し、二句は初句を基として其の上に立ち、三句四句は二句三句を礎として更に其の上に出で、層々調子を高めゆくもの、漢文家が一層進一層法、一級高一級法など稱するものである。漸層法は結體、增義、順感等の緖原理にも關係して居る。
一家非とするに力行して惑はざる者寡し。一國一州非とするに力行して惑はざる者に至りては、蓋し天下一人のみ。世擧つて非とするに力行して惑はざる者に至つては則ち千百年に一人のみ。伯夷の若きは天地を窮め萬世に亘つて顧みざる者なり。昭乎として日月も明らかなりと爲すに足からず崒乎として泰曲も高しと爲すに足らず、巍乎として天地もかたちを爲すに足らざるなり。(韓愈『伯愈頌』)
腐れ女の四つ足めに、心は夢々殘らねども、太兵衞めがいんげんき、治兵衞身代いきついての、金に手詰まつてなんどと、大阪中に觸れまはり、問屋中の交際つきあひにも、つらをまぶられ生恥いきはぢかく。胸が裂ける身が燃える、エヽ口惜しい無念な熱い淚血の淚血の淚をうち越えて、熱鐵の淚がもぼるゝ。(近松『天の網島』)
「しかし、これが僕の不思議なる願ひではない。僕の眞實の願ひではない。僕はまだ〳〵大いなる願ひ、深い願ひ、熱心なる願ひをつて居ます。この顧ひさへ叶へば、少女むすめは復活しないでも宜しい。復活して僕の面前で僕を賣つても宜しい。少女むすめを賣ッても宜しい。少女むすめが僕の面前で赤い舌を出して冷笑しても宜しい。 「朝に道を聞かば夕に死すも可なりといふのと僕の願ひとは大いに意議に異にしてるけれど、其の心持は同じです。僕は此の願ひが叶はん位なら、今から百年生きてき居ても何のやくも立たない、一向うれしくない、寧ろ苦しう思ひます。「全世界の人悉く此の願ひをつていないでも宜しい、僕獨り此の願ひを追ひます。僕が此の願ひを追うたが爲めに、其の爲めに强盜罪を犯すに至つても僕は悔いない、殺人、放火、何でもかまひません。若し鬼りありて僕に保證するに爾の妻を與へよ我れこれを姦せむ、爾の子を與へよ我れこれを くわはしむ、然らば我れは爾の願ひを叶はしめむと言はゞ、僕は雀躍じゃくやくして、妻あらば妻、子あらば子を鬼に與へます。」
「こいつは面白い、早く其の願ひといふものを聞きたいもんだ!」と綿貫が其の髭を力任かせに引いて叫んだ。
「今に申します。諸君は今日の様なグラ〳〵政府には飽きられただらうと思ふ、そこでビスマークとカブールとグラッドストンと豐太閤見たやうな人間をつきまぜて、一つの鋼鐵のやうな政府をつくり、思ひ切つた政治をやつて見たいといふ希望があるに相違ない、僕も實にさういふ願ひを有つて居ます、併し僕の不思議なる願ひはこれでもない。
「聖人になりたい、君子になりたい、慈悲の本尊になりたい、基督や釈迦や孔子の樣な人になりたい、眞實ほんとにさうなりたい。併し若し僕の此の不思議なる願ひが叶はないで以て、さうなるならば、僕は一向聖人にも神の千にもなりたくありません。
「山林の生活!と言つたばかりで僕の血は沸きます。則ち僕をして北海道を思はしめたのもこれです。僕は折々郊外を散步しますが、この頃の冬の空晴れて、遠のく地平線の上に國境をめぐる連山の雪を戴いて居るのを見ると、直ぐ僕の血は波立ちます、堪らなくなる!然しです、僕の一念ひとたび彼の願ひに觸れると、期んなことは何でもなくなる。若しも僕の願さへ叶ふなら、紅塵三千丈の都會に車夫となつて居てもよろしい。
「宇宙は不思議だとか、人生は不思議だとか、天地創生の本源は何だとか、やかましい議論があります。科學と哲學と宗敎とはこれを硏究し闡明し、そして安心立命の地を其の上に置かうと悶いてる。僕は大哲學者になりたい、ダルヰン跣足はだしといふほどの大科學者になりたい、若しくは大宗敎家になりたい。併し僕の願といふのはこれでもない。若し僕の願が叶はないで以て大哲學者になつたなら、僕は自分を冷笑し自分のつらに「いつはり」の一字を烙印します。」
「何だね、早く言ひ玉へ其の願ひといふやつを!」と、松木はもどかしさうに言つた。
「言ひませう、喫驚びツくりしちやアいけませんぞ。」
「早く早く!」
岡本は靜かに「喫驚びツくりしたいといふのが僕の願ひなんです。」(国木田獨步『牛肉と馬鈴薯』)
彫琢の跡が無く、全體自然に漸層を成して步一步最後の宣言に近づく趣が目の覺めるやうに面白い。

 七八 漸層法は警喩法と共に、人を勸誘折伏するに最も効力あるものである。 うそまこととなり、非理の眞理と解せらるゝや、其の言多くは漸層の形を取って現はるゝ。「某は欲深い男だ、金を欲しさうな顏して居る、金を儲けたがつて居るさうだ、あの樣な男は敵國利を以て誘はゞ應ずるかも知れぬ、奴と露國との關係が怪しい、彼れは露探だ、しからん。」と、次第に立言を進むれば、聞く者何時となく耳を傾けるやうになる。是れ論理學に立言漸進の似而非推論を說いて戒むる所以て、漸層法は我が說を主張する場合には用ゐて大効があるけれども、他の用ゐるを聽くに際しては眉に唾して警めねばならぬ。左に揭ぐる狂言「二千石」じせんせきの如きは漸層法の油断がならぬことを有り〳〵と證明して居る。筋は太郎冠者が大名の御意をそこねて手打ちにあはむとして助かつた所を書いたものである。 冠着が主人の刀をふり上げたる手許を見て、

足下の、直れ、斬らうと仰せられて太刀を振り上げさせられた御手許が大殿樣に能う似まして、それが哀れで吼えまする。 ▲大名「何と云ふぞ。そちは親ぢや人の時より召仕はれた者ぢやよな。 ▲冠者「左樣で御ざる。 ▲大「或徒然に、尺八を取う來いと仰せ付けられのを取つて來るとて、疊の緣に蹟いしつけで縛うであれば、あのしつけもない奴のとあつて、其の尺八をおつ取つて御打擲なされた御手許と、今身共が、直れ、斬らうというて、太刀を振り上げた手許が、親ぢや人に能う似て、それが哀れで吼ゆるといふか。 ▲冠「左樣で御ざる。 ▲大「扠々汝は哀れな事を思出した。そう云ふ者、太刀の打ち付けう所が無い。命を助くるぞ。 ▲冠「夫れは誠で御ざるか。 ▲大「誠ぢや。 ▲冠「眞實で御ざるか。 ▲大「何しに僞りを云はうぞ。則ち太刀も鞘に納むるぞ。 ▲冠「其の樣に早速御心の直らせらるゝところは、能う似させられて御ざる。 ▲大「何ぢや、能う似た。 ▲冠「中々。 ▲大「汝を年月つかへ共、何を一色もやらぬ。これは重代なれども其方に取らするぞ。 ▲冠「斯樣に物を下さるゝ御手許は其の儘で御ざる。 ▲大「何ぢや似たと云ふか。 ▲冠「左樣で御ざる。 ▲大「さういう者に何が惜からうぞ。これはわざよしなれども、これも汝に取らするぞ。 ▲冠「此の様に重ね〴〵下さるゝ、御手許は生寫しで御ざる。 ▲大「かう行く姿は、▲冠其の儘で御ざる。 ▲大「又戾る姿は ▲冠「今日の前に見る樣に御ざる。 ▲大「何ぢや、能う似たと云ふか。 ▲冠「左樣で御ざる。(是迄始終泣く) ▲大「やい。太郎冠者何を歎くぞ。昔から子が親に似て、代々後を績ぐ程目出度い事はない、哭く所ではあるまい、目出度う笑うて戾らう。

手討ちにされべき筈の太郎冠者が、その主人が親に似た事の漸層的說明によつて、命を助かつたのみなちす、遂に褒美まで貰ふやうになつた。「雨ならば宿もかる夕暮に霜にぞいたく袖ぬらしける。」といふ古歌は此處の人情を穿つたもの、謂はゆる潜滋暗長の恐るべきはこれが爲めである。

備考 修辞學者の中には、漸層法とは反對に、列擧する事の次第に弱くなり小さくなるものを漸降法というて、詞姿の一つに數へる者もある。しかしながら漸降法は唯だ漸層法の用ゐ損ねと見るべきもので、嘲笑侮蔑に値する惡文の例としての外は用ゐべきものでなく、從つて特に一の詞姿たるべき價値の無いものである。殊に之れを議論、演說等に用ゐれば謂はゆる龍頭蛇尾となり、名論卓說も聴くに足らぬものとなつて了ふ。例へば、
「惡七兵衞が力わざ、早業輕業神通わざたゞ飛ぶ鳥の如くなり。」といふ類ひで、折角の奮鬪も淺草奧由の輕業になる傾きがある。
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