TOPへ
『新文書講話』のトップ
back

第四 主として存餘の原理に基ける詞姿

 第三十二章 設疑法

 七五 設疑法とは容易に下し得べき結論をわざと疑問にして讀者に判斷せしむる詞姿、言ひ換ふれば、豫め結論にゆくべき道を拵ひおき、讀者をして自分のカでそこに進み入らしむる詞姿をいふ。謂はゆる言はぬは言ふにいやまさるものの一種で、其の面白味は想像の餘地の存する所にある。されば、設疑法に於いて揭ぐる疑問は難解の質問にあらずして容易に決し得べき疑問でなければならぬ。例へば、酒の害を列擧して後に、「故に酒を飮む者は自暴自棄の愚者である。」と斷定するよりは「然らば酒家を稱して智者といはれませうか。」と疑つた方が讀む者に面白く、奸人賣國の所行を叙して「武士でない」と斷ずるよりは「之れをしも日本武士といふべきか。」と問うた方が、讀者の興を惹く類ひである。

神は我れなり、外に求むべからずといひたる人に、……いで神は我れなりと思ひ給ふならば、又よく思ひて見給へ。我が如く色に染みたる神ありや、酒好みて程知らぬ神ありや、見る物に魂奪はれ、聞く每に心とられ、人に欺かれても知らぬ神ありや。たゞ神は人なり、我れは神なりといふはいと易かめれど、正しく直き神德の曇ることなく、照らさゞることなきを得て後にこそ。(松平定信『花月草紙』)
推量に違はず賴平めが訴訟よな。何者に賴まれし。天下の鏡となる賴光が心、儕等が知るべきか案外なりと御諚ある。老人憚る色なく、イヽヤ、弟を憎むを以て天下の鏡とは申されまじ。生まれ年こそ跡先なれ、弟も同じ親の血筋、兄も弟も心にかはりなけれども、若き時は血氣內にこはく、兄親の心に叶はぬがち、其の度每に血脈を捨てば、日本國天地人倫の道絕えはつるを、鏡にしては受け取られず。中にも賴平君は乙の若君、御母君の御愛子、これを殺しては御母への御不孝、不孝も天下の鏡か。その上一代一度の訴訟は、何事にても叶へむと堅き御契約の方も有り。武將の御身に契約を違へ給ひて是れでも鏡か。愚老が目にはわれ鏡、是れ申し、鏡の曇りは硏げば晴るゝ、いかな上手の鏡とぎも、破鏡はつぐにもつがれず、天下を照らすは及びもないこと、どこぞ田舍の山寺の、鐘鑄の奉加に入れ給へと、はぐきばかりの大口あけけら〳〵とぞ笑ひける。(巢林子『關八州繫馬』)
TOPへ
『新文章講話』のトップ
次へ