第四 主として存餘の原理に基ける詞姿

 第二十九章 接離法


 六九 接離法は一種の句讀法と云うてもよい、文法上切るべき所を續け、續くべき所を切つて趣味を添ふる詞姿で、文家の謂はゆる上字下讀而下字上讀するものである。例へば、文法上は「汝の言ふ所尤もなりさりながら思うても見よ。」と切るべき所を、「汝の言ふ所尤もなりさりながら思うても見よ。」とし、文法上「人心隔てぬ中の戯れは面白や。諸共に近くよりて語らむ。」と切るべき所を「人心。隔てぬ中の戯れは。面白や諸共に。近くよりて語らむ。」とする類ひで、讀み物、語り物、謠ひ物、朗讀、唱歌等、凡そ文章を美術的に讀むものにして此の詞姿を用ゐぬはない。義太夫語りの口上に「太閤記何段目。竹本筑後掾三味線鶴澤某。」と切り、日蓮の讀經に「此の經は無明の闇を照らす大法燈也。生死の迷を斷つ大利劍也南無妙法蓮華經南無妙法蓮華經。」と切るが如き、凡て此の法を應用したものである。老近松の文章の如き、此の接離斷續の趣に注意せずば、其の味はひの少なからざる部分が消え去るであらう。
 句讀の断續長短は文法上、論理上より見るのみならず、修辭上、美術上、音樂上よりも見るべきものである。文法家の杓子定規で句讀法を一定すべからざること、右の例を見ても明らかである。