第四 主として存餘の原理に基ける詞姿

 第二十六章 側寫法


 六三 「深雪みゆきなどいふ題を得て深しとよめらむ、心うかるべし。唯だふみ分けしとも、幾重つもらむとも、かきわけてなども、古き事に譬へてよみたらむ、いと優しかるべし。」これは藤原基俊朝臣が『悅目抄』に和歌の奧義をかれた文の一である。側寫法はまた依他法ともいふ。事物を叙するに正面よりせずして側面よりし、客を借りて主を寫し、他によりて自らを表はす詞姿である。例へば、「病重もりて粥をも食し得ず。」といふよりは「醫の驗なくして粥さへ咽を通らず。」といふ方、餘韻があつて面白く、「粥さへ日々にすたりてよろづに賴み少なくなりぬ。」といへば更に面白い。「衆皆泣きぬ。」といふよりは「袂をぬらしぬ。」といふ方、味はひがあり、「濡れぬ袂はなかりけり。」といへば更に味はひがある。「隅田川に凉まばや。」よりは「隅田の川風に扇やすめばや。」「花を思ふやうにけ得ぬ。」よりは「花がいふことを聞いて呉れぬ。」「物に見れて扇を落しぬ。」よりは「扇いつしか手より落ちぬ。」の方、想像の餘地がある。武士詞に敵に矢を射られながら「膝を射させ」といひ、塔の高きを形容して「河聲西流」といふ類ひの文の妙味は、此の點より明さるゝ。『古事記』の三韓征伐の條、新羅王朝貢を誓うた詞に、 というて、物の多き事、急いで來る事、永久に來る事を表はしたる、『折りたく柴の記』の、白石の父が其の主君を諫むる條に、熱誠に我れを忘れて顏を蚊の刺すをも知らずに居た事を寫して、 といひたる、是等の面白味も一面側寫の床しさに存する。側寫法は主體に關係ある事の中の側面部に筆を着ける點より見れば擧隅法の一種とも見られるが、猶ほ正面よりせずして側面を擇ぶ點に於いて一個の詞姿たる價値がある。