TOPへ
『新文書講話』のトップ
back

第三 主として增義の原理に基ける詞姿

 第二十一章 引用法

 四五 引用法は顯はに成語或は古事を引いて文章を飾るもの、詳しくいへば、我が立言を助くべき古事、或は古の格言、諺、詩歌等を引いて我が說に重みをつけ、文の內容を富まし、趣致を豐かにする裝飾法である。時は平凡事をも神聖化する。同じ言でも古人のとあれば今人の前に君臨する趣があり、祖先の事蹟は子孫の前に神さびて現はるゝ。是れ文章家の好んで古事、古語を引く所以、又同時代の人の言を容るゝを欲せぬ人も古語の銘の下に畏み恐るゝ所以である。此の詞姿は增義の原理の外、結體、朧化、融會、奇警、順感等の諸原理にも關係がある。

人心惟危、道心惟微、惟精惟一、允執其中。堯舜禹の三聖人此の十六字をもて天下を治め給ふ。堯舜禹は大聖人なり、天下の事は國を安くし、天下を太平に治むる外はなし。其の大事の授受は中の一字なり。孟子の人欲天理とのたまふも、此の中の一字なり。此の十六字、萬世聖人心學の傳授なり。……天照大神の、正直は一旦の依怙にあらずといへども終に日月のあはれみを蒙るとのたまふも道心なり、謀計は眼前の利潤たりといへども必ず神明の罰にあたるとのたまふは、人心なり。(藤原惺窩『千代もと草』)
盜跖孔子を罵れども孔子の聖たるに害なし、臧倉孟軻を誚れども誰れか孟軻を賢ならずとせむ。己れ是にして人の非なるを知らば爭ふ所なかるべく、彼れが是にして我が非なるを悟らば負けて過を改むるに如かず。柳の枝に雪折れなく、いと銳き刄は缺くることあり。堪忍五兩の廉なるは古の算盤ちがひなるを、多く買はまく欲せずや。春宵一刻千金を貴しと思はぬ人ごころ、只だ丹田を鎭むべし。張公藝が九世の同居も忍の一字を守るにありなにがしが堪忍記は妻に嘲らるゝを結局とす、安きに馴れてともすれば身の用心に怠りなば、兄弟鬩ぐの誚を釀して禍蕭牆の下より起こらむ。よりて今此の箴を作りて、自ら戒め、亦人をも警むることかくの如し。「おさへても堪忍袋なかりせば何にか入れむ癇癪のむし。」(曲亭馬琴「堪忍の箴」)
古の人曰へらく、人は神と財とに兼ね事ふること能はず。されば生命いのちの爲めに何を食ひ、何を飮み、また身體からだの爲めに何をむと思ひ勞らふ勿れ。生命は糧よりも優り、身體は衣よりも優りたるものならずやと。人若し吾人の言をなすに先だちて、美的生活とは何ぞやと問はゞ、吾人答へて曰はむ、糧と衣よりも優りたる生命と身體とに事ふるもの是れ也、と。(高山樗牛「美的生活を論ず」)

 引用法はもと我が立言を明らかにし我が文章に品格を添へむが爲めに用ゐるものである、故に此の詞姿を用ゐるには、漫りに難解の古事古語を引いてはならぬ。學德高からざる小人物の言を引いてはならぬ。

TOPへ
『新文章講話』のトップ
次へ