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第二 主として朧化の原理に基ける詞姿

 第二十章 曲言法

 四四 曲言法とは背感の事物を和らぐる爲めに言をくねらせて遠廻しにいふ詞姿をいふ。或は當の事物を言はずして餘所事を云ひ、或は省略して表はさず、或は控へ目に言ひ、或は必要以上の語を用ゐて間接に間遠に言ふ等は曲言する方法の主なるものである。例へば「出來ぬ」「成らぬ」といふべきを「いけませんと其の全くいふ譯ではありませんが、餘り其の御爲めでないかと思はれるまするによつて」といひ、「愚」といふべきを「餘り賢からず」と云ひ、「當たらず」といふべきを「さまで違はず」と和らぐる如きは、屢〻交際家の言に現はるゝ曲言法である。前に誇張法の例として引いた『左傳』の「中軍下軍爭舟。舟中之指可掬也。」『外史』の「衆攀舟爭乘、斷臂滿舟。」の如きは、共に指を斷る、肘を斬る、といふ殘酷な部分を省いて結果だけを示したもの、此の點より見れば、『平家』の「乘せじとする船に取りつき摑みつき、或は臂うち斬られ或は肘うち落され、一の谷の汀にあけになりてぞ並みふしける。」に優つて居る。支那春秋の代に晉侯獳といふ人、大おにに迫られたと夢み、覺めて桑田の名高いみこを召して占はせた。

公曰何如。 曰矣。(『春秋左氏傳』)

「何時頃は死ぬ。」「何時迄は持てぬ、六かしい。」などいはずして、「新麥は召上がれますまい。」と餘所事に寄せた所、絕妙である。

僕見たやうな弱い人間は忍耐力がないから、かうなるとぢき自棄やけが起こる、えい、いつそ、酒は不味まずいが、酒でも飮み習つて無茶苦茶になつて了はうかと思ふことが屢〻あるけれど、そんな時に貴女あなたの事を想ひ出すと、荒びた氣が自然と鎭まつて又辛抱する氣になる。如何どういふ譯だか僕にやよく分からん。そりや考へて見ると、貴女も隨分不幸な人だ、宛然まるで孤兒こじだ、僕が力にならなきや、誰れ一人力になる者は無いのだから、それで義俠心が起こるのだか、何だか知らないが、僕一個の爲めには無意義な生活が貴女の爲めだとなると意義をつて來る、沮喪した勇氣を振り起こして又奮鬪する氣になる、それも貴女の身に直接に關係の有る事ほど不思議に勇氣が出て來る。此處に又一寸ちよつと妙な所があるがね、之れを只だ同情だ戀愛だと謂つてしまやそれ迄だが、僕にや何だか普通の同情や戀愛以上の或物が有るやうに思はれる、何だか分からないが、そんな物が……が、ま、それは兎に角さ、貴女は、だから今の處僕に取つては唯一の慰籍いしやであると同時にだね、僕を生活に繫いで行くソノ……まあ、早く言や連鎻チエーンのやうなものだね。(二葉亭『其面影』)

曲言法は朧化の原理の外多少、增義、存餘、融會、奇警、順感等の諸原理にも屬して居る。
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