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第一 主として結體の原理に基ける詞姿

 第十五章 括進法

 三八 出直しと云ふ點に於いて換置法に似たる詞姿に括進法といふべきものがある。括進法は、前に言つた事をり束ねて叙述をめ行く詞姿、言ひ換ふれば前文を括つて出直す詞姿である。例へば、歐洲諸强國の詐僞的侵略を罵つて「交通して、欺いて、怒らして、戰うて、人の國を奪ふのが西洋諸國の謂はゆる文明である。」といふ所を、「交通する、欺く、怒らす、戰ふ、人の國を奪ふ―是れが謂はゆる文明である。」といひ、「境界の安樂は俗樂なり、君子安樂の本體は吾人方寸の內に在る常住不變のものにて、雲行雨施雷電震動の時も、白日靑天は少しも變はる所なし。人々の心裡の白日靑天即ち安樂の本體なれば、いづれの境界にて喜怒哀樂する時も、中庸の本體は變はりなきものなることを體認するが聖學なり。」といふ所を「……中庸の本體は變はりなきもの、此處を體認するが聖學なり。」といふが、即ち括進法である。此の詞姿の主なる役目は叙述が長くなり散らばれるを撿束して、讀者の心眼に顯著確實に映ぜしむる所、換言すれば朦朧散漫を防ぐ所に在る。故に括進法は融會順感の二原理にも多少の關係はあるが、主として結體の原理の上に立って居る。

善に遷り難く惡に墮落なされ易き旨、是れは意念の自ら欺く故にて候ふ。良知寂然不動の眞を御體認なされ存養遊ばされ候はゞ、其の病痛自ら除申すべく候ふ。(中江藤樹、書簡)
こゝに出羽の國小野の良實が娘に小野の小町、彼れはならびなき歌の上手にて候ふが、今は百年のうばとなつて、關寺邊に在る由聞召し及ばれ、御憐みの御歌を下され候ふ。(謠曲「鸚鵡小町」)
森閑とした浴室ゆどの、長方形の浴槽ゆぶね透明すきとほつて玉のやうな溫泉いでゆこれを午後二時頃獨占して居ると、くだらない實感からも、夢のやうな妄想からも脫却して了ふ。浴槽ゆぶねの一端へ後腦を乘せて一端へ爪先を掛けて、ふわりと身を浮かべて眼をつぶる。時に薄目をけて天井際の光線ひかりまどを見る。みどりに煌めく桐の葉の半分と、蒼々無際限の大空が見える。老人なら南無阿彌陀佛〳〵と口の中で唱へる所だ。老人でなくとも此の心持は同じである。(國木田獨步『都の友へB生より』)
彼れのあらこはい髪、大きな鼻、體軀からだの割合に幅の廣い肩なぞは、寒い山國の生まれといふ事を示して居る。傲岸であると同時に柔弱な、過激であると同時に臆病な、感じ易いと同時に愚圖〻〻した―斯ういふ憐む可き性質は、彼れの容貌を沈欝にして見せる。(島崎藤村氏『春』)

「墮落なさるゝは」「小町」「溫泉を獨占して」「愚圖〻〻した憐むべき性質」と續くれば、何等の趣味もなきのみならす、長びき散らばる嫌ひのあるのを、括つて出直した爲めに一段の趣致を添へたのである。此の詞姿の味はひは、子供に用を吩咐いひつける時に、「今日御誘ひ申して御一緖に行く御約束を致しましたが、據ない用事が出ましたから何卒御先きに御出かけ下さい云っておいで。」と云へば解りにくいのを、「御出かけ下さるやうにツて、ネ、さう云つておいで。」と括れば、解り易く又面白くなるのを見てもわかる。
 括進法は文脈を中斷して、出直す點より見れば後に說く遮斷法に似て居るが、遮斷法は中止して言を止め或は他の事を說き出づるもの、括進法は長い叙述を短く括つて同じ文脈を辿りゆくもの、混ずべからざる所がある。

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