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第一 主として結體の原理に基ける詞姿

 第十二章 對照法


 三三 對照法とは相反したる事物を並べぐる詞姿である。此の詞姿は、或は寫さむとする當の事物をしくせむが爲めに用ゐられ、或は兩々相映發せむが爲めに用ゐられ、或は單に詞のあやを成さむが爲めに用ゐらるゝ。抑人間の性として、一つの事物性質を考ふれば、自然に之れに反對した他の事物性質を思ひ浮がべ、而して相反したる事物性質を思ひ浮かぶることによつて、前の事物性質が一しく感ぜらるゝ。例へば、炭の黑きを思ひ浮かぶれば雪の白さが一しく感ぜられ、提燈を並ぶれば吊鐘の大きさがしく見える類ひで、「雲泥月鼈」と云ひ、「老で鯛釣る。」と云ひ「長いさゝぎが花は短うて、短い栗の花の長さよ。」といひ、「合抱の木毫末に生ず。」と云ひ、「山中の賊を破るは易し、心中の賊を破るはし。」と云ふ如き文の面白きは、人間の此の性情に投ずるが爲めに外ならぬ。此の詞姿は一語一句の間に用ゐらるゝのみならず、戯曲小等の全體の結構の上にも用ゐらるゝ。小野九太夫が不忠を配して大星由良の助の忠をしくし、畠山重忠に梶原景時、松前鐵の助に仁木彈正、政岡に八汐を相對せしめて忠奸互に相映發せしめ、晴天の後に風雨、好笑に次ぐに悲慘、宴樂に次ぐに戰爭を以てして、兩端相助け相補ふ等、いづれも此の法を應用したるものである。此の詞姿は融會、奇警、順感の三原理にも多少の關係はあるが、主として結體の原理の上に立つて居る。

 三四 對照法を大別すれば二類となる。第一類は單に相反したる語句を相對せしめて文章をあやなすもの、形式的、表面的の對照法で、對照法の下等なるものである。例へば「唐衣新しくたつ年なれば人はかくこそふりまさりけれ。」と云ひ、「旗あまた調ひつゝ、坂の上におし立てゝ」といふ類ひで、たゞ言を弄ぶに止まるもの、駄洒落に近いものである。品高き文章に濫用してはならぬ。

主從泣く手を取り組み船端に臨み、さるにてもあのにこそ沈まうずらめ。沈むべき身の心にや、の兼ねて浮かむらむ。西はと問へば月の入る、其方も見えず大方の、春の夜や霞むらむ、も共に曇るらむ。(謠曲「通盛」)

 對照法の第二類は思想に對照あるもの、其の中に對照の意の語句の上に顯はなるもあれば、文字上には殆んど對照の跡のないのもある。對照法の上乘なるは此の第二類である。例へば「我れ吉事よきことを望みしに凶事あしきこと來たり、光明ひかりを待ちしに黑暗くらやみ來たれり。」と云ひ、「荊棘いばらより無果花を採らず、あざみより葡萄を採らず。」と云ひ、「人遠き慮なければ必ず近き憂あり。」と云ひ、「春の日し見がほし、秋の夜しさやけし、朝雲田鶴は亂れ、夕霧かはづはさわぐ。」と云ふが如き、皆此の種類に屬する。一茶が加賀侯に句を乞はれて與へたる十七字「何のその百萬石笹の露。」の如きは對照法を靈化して文字に聲あるもの、莊子の「是其塵垢粃糠猶將陶鑄堯舜也。」の如き、亦對照の妙、神に入つたものである。

大はよく小を兼ね、短は長にまかるゝためし、世にそのたぐひ多かり。たゞ君を賀し人を壽くにぞ、齡を長濱の鶴にたぐへ、あるは龜の尾山の尾を引いて、五百八十七曲とひものするには、あくかたあらじかし。その餘はひたぶるに十八さゝげのゆたけきにならへば、獨活の大木の謗をのがれす。矮鷄は足の短さを愛し、禿が返辭は長きにのどけし。出る杙頭くひかしらうたれてつひの益なく、下手の談議のとまり兼ねては、軒の柳もねむり顏なり。たゞ女の髪こそめでたくてあらましを、手長き人は一門にも遠ざけられ、鼻の下の伸び過ぎたるは、大事の相談にもらされて、其の夜の饂飩の長きを知らず。されば、必ず長きは短きが上にも立ちし。物はたゞ秋の夜の長くてよからむは長く、波潟みじかき蘆の長からずしてよきは短くてあらなむ。さるを聖人も右の袂の自由を物ずけり。世に式法を細かに定めて、かね合極むるもあれど、そのむづかしき境は人の製作なり。天地もと窮屈ならず、長短は自然に備へて、寸分の詮議はなし。摺粉木は兩手に握るを程とし、杓子さい槌は片手に足れり。下ざまの物ながら、天理のまゝなるぞたふとけれ。我が友田氏、過ぎし比、かりそめの旅のつとに、煙管をれり。その短さこと掌にかくすベし。我れ此の秋西郊に遊ぶことありて、調寳はなはだ長きにまされり。これをくはへて手をからず、久しくして齒を勞ぜず、ゆく野山に雲を吹き、あく時は袖にをさむ、張子が馬を懷にするが如し。是において感あり、つひに長短の解をつくりて、これをむくふの詞にかふ。其の辭の長過ぎたるは、又才の短きが故ならむ。(橫井也有『鶉衣』長短解)
代々甲冑の家に生まれながら武林を離れ、三槐九卿につかへ咫尺し奉りて寸爵なく、市井に漂うて商賣知らず、隱に似て隱にあらず、賢に似て賢ならず、物識りに似て何も知らず、世のまがひ、唐の大和の敎へある道々、伎能雜藝滑稽の類まで、知らぬ事なげに口に任せ筆に奔らせ、一生を囀りちらし、今はの際にいふベく思ふベき眞の一大事は一字半言も無き倒惑、心に心の恥をおほひて七十餘りの光陰、思へば覺束なき我が世經畢。もし辭世はと問ふ人あらば、
それ辭世さるほどにさてもその後に殘る櫻の花しにほはゞ。(林子「辭世」)
「明月は座頭の妻の泣く衣かな。」一誦して下らしむ。げに蓬ひがたき淸光の一夜に負きて、空しく蕭條の膝を抱く盲目は、世にも不幸の大なるべし。さはれ、世の盲目ならざる、果たして盲目よりも幸福の大なる乎。盲目ならざるものも、天上淸光の虧け易きを恨み喞つにあらずや。目なきもの、もとより悲しむべく、目あるもの亦未だ喜ぶに足らず、いづれは同じ破れ易き色身の歎きを載せて、うつろひ易き幸福の花を逝波の上に追ふ人の世の慣ひなり。鳴浮世に眞幸福はなき乎、目なきものをして凋まぬ心の華を觀ぜしめ、目あるものをして常住眞如の月の姿を打ち仰がしむるものは何ぞや。(綱島梁川『回光』)

也有のは文字を弄んだ傾きがあつて嵌木細工風の忌味があり、之れに反して後の二つは對照の跡が顯はならずして光りをつゝんだ玉の如き床しみがある。對照法の上乘なるものは、やはり對照の鼻につかぬもの、謂はゆる味噌の味噌からず、深く藏して售らざるものに存する。
 對照法は對偶法と頗る相類似して居る、従つて西洋の修辭學には二を一緖に取り扱つて居るもある。されども、對照法は相反したる事物を對せしむるもの、而して對偶法は語句を對偶せしむるもので、對偶せしむる事物の同じきと反するとを問はぬ。二出入して居りながら混ずべからざる所がある、故に對偶法をば語句、口調の對照と見て對照法の一部に取り入れても差支はないが、それよりは寧ろ反覆法の一種と見て、同じ口調の語句を反覆する即ち對偶法といふ方が穩かであると思ふ。本書は後の見解により、反覆法に次いで對偶法を論ずることにした。又文家の謂はゆる抑揚、頓挫、波瀾、起伏、擒縱等は大抵對照法の一種として明し得べきものである。

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