第一 主として結體の原理に基ける詞姿

 第十一章 現寫法


 三二 現寫法とは過ぎ去つた事、將來に起こるべき事を現在目前の事の如く言ひ做す詞姿である。形式上より云へば、き、けり、ぬ、つ、等の過去働詞、らむ、べし、まし、等の未來働詞を用ゐべき所に現在働詞を用ゐて、隔世の事柄を讀者の心眼に活躍せしむるものである。凡そ人間の性として、情を激する事物に對しては、之れを回顧する場合にも、豫想する場合にも、かけ離れたものとは見ずして眼前の活事實のやうに思ふが常である、從つて人をして過去未來の事を活き〳〵と感ぜしめやうとすれば、自然に之れを眼前脚下の事の如くに言ひ做す。現寫法の起原は茲に存する。
 現寫法の目的は遠きを近くし、薄きを濃くして、當の事實をあり〳〵と結體せしむるにある。故に此の詞姿は存餘、融會、奇警、順感、變性等の諸原理にも多少關係しては居るが、主として結體の原理の上に立つて居る。
 過去を現在に言ひ傚すとは、例へば、過去の戰を記して「天明けたり、曉氣淸し、全軍肅々として敵壘に向ふ、午前五時を報ず、進め擊て!の命令あり、喇叭の聲起こる。」といふたぐひ、未來を現在に言ひ做すとは「首尾よく露國を破りおほせやうか、西洋人は日本を硏究し初める、我れの長所を見出だす、我れを學ぶ、遂には我れを凌駕せむとする、是に至つて吾等の使命は一段と重くなる。」の類ひ、書翰文に「參上致すべく候ふ。」と未來にいふべきを「參上致し候ふ。」といふなども、其の一種である。

 右の二例は共に過去を現在に言ひなしたものである。現寫というても徹頭徹尾現在の詞のみを用ゐねばならぬといふのではない、或は前に過去と斷つて後を現在にし、或は始めに現寫して末に過去と斷り、或は二者交〻せしむる等、いろ〳〵に取りまぜた方、却つて文に趣致を添へる。未來を現在に言ひ做す方も同樣である。前なる二例及び次ぎの一例は、それぞれ現在法に過去法、未來法を取りまぜたものである。 正しく文法的にいへば「子も死なむ」「親も死せむ」とあるべきを現在にしたのである。
 誇張法と同じく、現寫法にも主觀的自然が最も大切である。文字の上だけのわざとらしい現在化は、何等の効力も無いのみならず、往々にして徒らに稚氣を示し、文の趣致品位を傷つける。凡て誇張、現寫等、熱情を基とする文飾は、とかく矯飾に流れ易い傾きがある故に、成るべく節用せねばならぬ。用ゐた方か、用ゐぬ方か、怪しいのは、大抵の場合見合はせた方がよい。徹頭屋ひたおしの過去法にもいふにいはれぬ味はひのある事は『古事記』などの明らかに證する所である。