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第一 主として結體の原理に基ける詞姿

 第十章 誇張法

 三〇 誇張法とは事物を實際よりは誇張して、過度に大きく或は過度に小さく言ひ做す詞姿である。凡その事物、情の眼に映ずるや、多少の割增或は割引に逢はぬ場合が殆んど無い。いた目には痘痕あばたも靨と見え、嫌ふ者の耳には敬語も追從と聞こえる。故に、いづれの藝術に於いても事物を寫して人を動かさうとする時には、其の肝要なる部分を誇張するが常で、而して其の誇張が見る者聞く者に不自然と感ぜしめぬのみならず、それが却つて作物に趣味を添へて人を惹きつける。例へば、山水の畵に於いて雲を凌ぐ古松が小さい巖の上に蟠屈してあつても、見る人怪しまず、狂言に於いて徑一尺餘の大杯を瞬時に飮み干すを見ても鷲かぬ、怪しまず驚かぬのみならず却つて其處に一種の面白味を感ずる。文章に於いても其の如く、「流血杵を漂はす。」「日月に鞭つて星辰を叱す。」「燕山の雪片大いさ蓆の如し。」と云ひ、「芥子粒の如き根性魂」「蚤の足音蟻の咡きまで聞く。」などいふ文を見ても、馬鹿らしく思はぬのみならず、却つてそこにえならぬ美趣を認める。畢竟人間の情に本來誇張の癖が具はつて居る爲めである。
 誇張法の人を感ぜしむるは事物の特殊の點を著しくしてあり〳〵と見せる爲めである。此の詞姿は主として結體の原理の上に立つて居る。

速須佐男命、さしたまへる國を知らさずて、八拳やつか鬚胸前ひげむなさきに至るまで啼きいさちき。其の泣き給ふさま靑山をから山なす泣き枯らし、河海うみかはこと〴〵に泣き乾しき。こゝをもてあらぶる神の音なひ狹蠅なす皆わき、よろずの物のわざはひ悉におこりき(『古事記』)
比の世の名殘、夜もなごり、死にに行く身を譬ふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれかぞふれば曉の七つの時が六つなりて殘る一つが今生の、鐘の響きの聞きをさめ、寂滅爲樂と響くなり。鐘ばかりかは草も木も、空もなごりと見上ぐれば、雲心なき水の音、北斗はさえて影うつる星の妹脊の天の河、梅田の橋を鵲の橋と契りていつまでも、われとそなたは夫婦星、必ずさうとすがりより、二人が中に降る淚、河の水嵩もまさるべし(巢林子『曾根崎心中』)

恐ろしく誇張しながら、いかにも自然なる所、此の種の文の上乘たるに恥ぢぬ。

三千大千世界に七日降る雨の數は數へつくしてむ、十方世界の土地の塵の數は知る人もありなむ、法華經の一四句偈の供養の功德は知り難しとこそ佛說き給ひて候へ。(日蓮「窪尼御前御返事」)

調ふる鼓の音は、雷の聲と聞くまで、吹きせる小角の音も、敵見たる虎か吼ゆると、諸人のおびゆるまでに、捧げたる旗のなびきは、冬ごもり春さりくれば、野每につきてある火の、風のむた靡ける如く、取り持てる弓弭のさわぎ、み雪ふる冬の林に、つむじかもい卷きわたると、思ふまで聞きのかしこく、引き放つ矢のしげけく、大雪の亂れて來たれ……(『萬葉集』柹本人麿)

誇張法に唯だ當の事物の數量性質を過大に言ひなすものと、他の大いなる事物に譬へ、或は大いなる事物を蹈まへて誇張するものとある。前の二例は前者に屬し、後の二例は後者に屬する。

 三一 誇張法を用ゐるについて注意すべきことは漫りに誇大なるべからざること、大きく言ふにしても最も妥當なる程度を見極はめて筆を着くべきことである。例へば「地球質に置いて酒を飮め。」といひ、「武藏野にはゞかる程の梅の木に天地に響く鶯の聲。」と云ひ、「芥子粒の中に家建てゝ讀む書の文字の大いさよ。」と云ふ如きは、實の伴はぬ殻ばかりの誇大で、張子の虎の子供だましに異ならぬ。本來誇張法は、とかく不自然に流れ易いもので、之れを無難に使ひおほせるには常に內容の伴ふこと、情の充實することを要する。殊に之れを用ゐるに注意を要するは、科學の文や歷史地理の事實を記す文等である。賴山陽の『日本外史』の一の谷の戰を叙した所に、

宗盛乘輿を奉じ海に航して逃る。衆舟に攀ぢ乘ることを爭ふ。斷臂舟に滿つ。遂に讃岐に奔る。

とあるは、『平家物語』に「敵に遇ひては死なずして乘せじとする船にとりつき摑みつき、或は臂うち斬られ、或は肘うち落され、一の谷の汀にあけになりてぞ並みふしける。」とあるを種とし、『左傳』の晋楚邲の戰の文、

桓子爲す所を知らず、軍中に皷して曰はく、先づ濟る者は賞あらむと。中軍下車舟を爭ふ。舟中の指掬すべきなり

を摸したのであるが、左丘明の妥當なる誇張が、あさましき實景を現前せしむるに反し、山陽のは誇張過ぎて趣致の足らぬ憾みがある。舟中の斷指水に血にへられたる所、掬ぶと云うてこそ當たれ、こぼるゝばかり落武者を滿載した船に「斷臂滿つ」では惜しいかな嵌まらぬ。

義貞義助斜ならず悅んで、是れ偏に八萬大菩薩の擁護による者なり、暫らくも逗留すべからずとて、同九日武藏國へうち越え給ふに、紀五左衞門、足利殿の御子息千壽王殿を具足し奉り、二百餘騎にて馳せ付たり。是れより上野、下野、上總、下總、常陸、武藏の兵共期せざるに集まり、催さゞるに馳せ來て、其の日の暮程に、二十萬七千餘騎、甲を並べて控へたり。されば四方八百里に餘れる武藏野に、人馬共に充ち滿ちて、身を峙つるに所なく打ち圍うだる勢なれば、天に飛ぶ鳥も翔る事を得ず、地を走る獸も隱れむとするに處無し。草の原より出づる月は、馬鞍の上にほのめきて、鐙の袖に傾けり(『大平記』)

日本全國でも端から端まで八百里には足らぬ。武藏野もこれには恐縮するであらう。但し寓言等に於いては、宏大無邊の誇張を用ゐても少しも差支ない。

北冥に魚あり、其の名を鯤とす。鯤の大いさ其の幾千里なるを知らざるなり。化して鳥となる、其の名を鵬とす。鵬の背其の幾千里なるを知らざるなり。怒つて飛べば、其の翼天より垂れたる雲の若し(『莊子』)

かくの如きは寧ろ無限大なる處に妙味がある。ミルトンの『失樂園』などの妙味も、一部はかやうな所に存する。但し無限大はよいが、わざとらしくれあがつたやうなのは、趣致を損し讀者の同情を失ふ恐れがある。例へば、

身も腕も叶はねども兩眼は自由なり、白眼にらみ殺して捨てんずとくわツと見ひらく眼の光、尊も負けじとねめつくる、橋立が無念の念、五臟の力眼にせり上げもみあげて、にらむ力に左右のまばたさツとさけ、肝の臟をせりやぶり、めのたまに血わたをつらね三寸ばかりぬけ出でたり。經胳績きて二つの瞳尊の袖に入るよと見えしが、橋立はかツぱとふして死してけり、(近松『持統天皇歌軍法』)

の如き、行文は妙だが、誇大に過ぎて滑稽に陷らむとする趣がある。「くわツと見開く眼の光り、二面の鏡硏ぎ立てゝ額に付けたる如くなり。」といふが如きも、同じく過ぎて打ち壞しになつたもの、古淨瑠璃に見える誇張には多く此の弊がある。
 一たび誇大に言ひ做して後に、前に及ばぬ小誇張を用ゐてはならぬ。例へば、『竹取物語』のかぐや姬の迎が天下りした所に、

かゝる程に宵うち過ぎて子の時ばかりに、家のあたり晝の明さにも過ぎて光りたり望月の明さ十合はせたるばかりにて、有る人の毛の穴さへも見ゆるほどなり。大空より人雲に乘りており來て、地より五尺ばかりあがりたるほどに立ちつらねたり。

月の光は十合はせても晝の明るさに及ばぬ。望月の一句は削つた方遙かにめでたい誇張になる。
 要するに、誇張法の妙は主觀的自然の現はれる所にある。理の眼で冷やかに見ては馬鹿げて話にならぬ事でも、それが當事者の熱した心の感ずる實際であると見れば、その馬鹿げて大袈裟な所に一種の詐らぬ誠、即ち情の自然が現はれて、床しい味はひが生じて來る。これが誇張法の生命いのちで、從つて情の充實といふ事を缺けば、誇張法はもぬけの殻、張子の虎になつてしまふ。

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