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第一 主として結體の原理に基ける詞姿

 第六章 活喩法

 二三 活喩法は無生物に生を賦與し、或は無生物、下等動物及び無形の精神作用を人に擬する詞姿である。例へば「矢飛ぶ。」「三伏の酷暑に草木喘ぐ。」といふは單に無生物に生を與へたもの、「花笑ふ。」「浪狂ふ。」「月斗牛の間に徘徊す。」といふは無生物を人間に擬したもの、猿蟹合戰や龜兎競走の寓言等は下等動物を人間に擬したもの、「天道親無し常に善人に與す。」「良心戒めて曰はく、欺く勿れ、盜む勿れ。」といふ類を初め、善玉ぜんだま惡玉あくだまの物語や、もろ〳〵の神話などは、いづれも人間の精神作用、情欲、理想等を人間扱ひにしたものである。此の中、人に擬する方の詞姿を稱して擬人法と云ふ。人化は活化の至極で、活喩法の精隨は擬人法である。もと活喩は事物の活動的方面を誇張したもの、例へば、吾等が非情の事物に同情した結果、草木に心あらば斯くあらむ、鳥獸に理性を具へしめばかくこそ思はめ、無形の情欲、良心も生命あらばかくや言はむと、心あての想像に言語といふ形を與へたものである。故に、此の點より見れば活喩は一種の誇張法と云つてよい。但し誇張法は何に限らず針小を棒大にする詞姿の總稱、活喩法は靜かなるものに動的趣味を加へ、非情物の活動を誇張して人間に擬ふる詞姿である。活喩はまた一種の隱喩というてよい。「白き花ゑみの眉開けり。」といふは「白き花の咲きたる樣を人に譬ふれば、ゑみの眉をひらけるに似たり。」といふべきを「譬へば」「似たり」の說明詞を取り去つて、相似の關係を相即の關係にしたのである。「蝶愁ふ。」といふも「人に譬へば愁ふとや云はまし。」といふ直喩を隱喩にしたものに外ならぬ。但し、隱喩は直喩の相似の關係を相即の關係にする所を標的めやすにして命名した詞姿、活喩は非情を有情化する方面を標的めやすにした詞姿である。
 活喩法の詞姿原理に對する關係は隱喩に異ならぬ。但し活喩の生命は誇張にある、而して誇張は事物の特色を顯著あり〳〵と見するに在るが故に、結體の原理先づ最も重く、次ぎに非情を有情化することの奇拔なる點より見て、奇警の原理が第二に重きをなすというてよい。


 二四 活喩を分けて二類とする。第一は單に非情の事物を有情物扱ひにするもの、第二は非情の事物をして有情物同樣人間同樣に活動せしむものである。第一、非情の事物を有情物扱ひする方がまた二種に分かるゝ。一は非情の事物に唯だ人間の名を與ふるもの、他の一は人間らしくあしらふものである。二者ともに非情の事物が自ら活動するのでなく、單に作者に人間扱ひさるゝといふ點に於いて一致して居る。例へば、魚に鯛の壻源八あり、源五郞鮒あり、おむら(鰯)あり、鮫に角兵衛あり、龜に正覺坊あり、鳥に勘三郞あり、川に坂東太郞あり、山に安達太郞あり、雲に丹波太郞坂東太郞あり、菓子に五郞四郞(小麥の餅)あり、果物くだもの大和牟都美命おほかむつみのみことあり、舟に佐伯あり、禿頭に六筋有衞門十筋右衞門あり、月日に土用二郞土用三郞寒四郞二郞じろう朔日づいたちあり。是等は單に非情物に人間(又は生物)の名を與へたものである。次ぎに人間らしくあしらふとは、例へば「秋風心して吹け。」「摺小木に知らるな蓼の花盛り。」「科もない扇をひねりまはし」「山は面瘠せて哀れに森は骨立ちて凄じ。」などいふ類ひで、左の例皆然り。

折々人をやすむる月見かな。(松尾芭蕉)
やれ鳴くなそれほど無事で歸る雁。(小林一茶)
心からよこしまにふる雨はあらじ風こそ夜の窓はうつらめ。(日蓮)
思ひあればあはれと仰ぐ大空に月もひとりぞながめ顏なる。(香川景樹)
故鄕の軒端の松も心せよ。おのが枝々に嵐の音を殘すなよ。今の砧の聲添へて、君がそなたに吹けや風、あまりに吹きて松風よ、我が心通ひて人に見ゆならば、其の夢を破るな(謠曲「砧」)

最後の例は招呼法とも稱すべきもので、無生物を人間あしらひする活喩の中では最も高等なものである。


 二五 第二類、非情の事物に人間らしく活動せしむる方の活喩もまた二種にわかるゝ。一は唯だ人間同樣に活動せしむるもの、二は說話をなさしむるもので、二者共に無生物、下等動物及び精神作用の三つを含んで居る。
 非情物を人間同樣に活動せしむるとは「秋風紅葉ばに別かれを惜しむ。」「おりや泣くまいと思へども、どうも淚が堪忍せぬ。」「月は雲井に寢靜まり松に嵐に鼾して」といふ類ひで、近松巢林子が之れによつて文章の呼吸を會得したといふ『源氏』の名句「節會の折ふし雪いたう降り積もりけるに、衞士に仰せて、橘の雪拂はせられければ、傍なる松の、枝もたわゝなるが、恨めしげにはね返りて」の如き、皆これである。

今も聽いてゐれば、冷水ひやみづをあがるにひとの錢を借りながら、三十二文で一盃とは勿體ないことだ。ア其の錢がさぞ嘆いたことであらう。君の御馬前で討死を願ふは主のお役に立ちたいと思ふ昔の武士、只今の錢なども、三十二文で、まきや味噌のたりにでもなりたいと心がけた所を、砂糖入れた冷水一盃が手にかゝつては、誠の犬死だ(式亭三馬『浮世風呂』)
銀河ぎんが秋を吿ぐれども君は歸り給はず、冬を待ち春を迎へても消息おとづれなし。今は京にのぼりて尋ねまゐらせむと思ひしかど、丈夫ますらをさへ宥さゞる關のとざしをいかで女の越ゆべき道もあらじと、軒端の松にかひなき宿に狐鵂鶹ふくろふを友として今日までは過ごしぬ。今は長き恨みもはれ〴〵となりぬることのうれしく侍り、逢ふを待つ間に戀ひ死なむは人知らぬ恨みなるべしと、又よゝと泣くを、夜こそ短きにといひ慰めて共に臥しぬ。窓の紙松風を啜りて夜もすがら凉しきに、途の長手ながてつかうまく寢ねたり。(上田秋成『雨月物語』)
別府も思ひ當たりしか、尙ほためさむと太刀追取おツとつて、サア爰に一人あり、男か女か氣質はいかに、聲を聞かずにを聞いても知るといふ、はや占へと云ひければ、ムヽ此の人は男何方どなたかは知らねども、身には金銀着飾つて心の中は恐ろしい、人を殺さう〳〵といふ念絕えず、お側近う斯樣の人いらぬものと合はすれば、皆々感じ咡く中より酒樽一つ取り出だし、サア爰へ出た人心ばへを指して見よ。櫻葉一寸見扨々此方こなたは結構ぢや、上人にも下人にも、憂へにも悅びにも此方なうては叶はぬ人、さりながら一つの疵、附き合ふ人に金遺はせつひ氣違ひにしてのけうと、云へば各〻我を折つて奇妙〻〻と騷げども、別府未だ疑ひ晴れず、侍分の者どもはなま心ある故に向うの心に徹するなり。無念無想の下部共占はせよ承ると、下臺所の仲間ども銅の茶瓶をさげ、サア此の人の年恰好心立はと問ひければ、オヽ其方はよい年なればこそ、天窓あたまはきんか仁體はよけれども、口が差出て朝夕にちやは〳〵〳〵〳〵やかましい癖があるとぞ申しける。(巢林子『百合若大臣野守鏡』)

 二六 無生物、下等動物、精神作用に人間の如く說話せしむる文の例は、

月も盈つれば虧くるの道理、よろづを見るに、目八分にかまへて一つも違ひなし、中にも酒といふもの、九分に受けてもこぼれ易し、其の上戸相應に六分に飮むべしと、御三寸おみき大明神の御託宣なり。(井原西鶴『俗つれ〴〵』)
夜の景色は夢のやうに見える。暗い柳は人のやうに立つて居る。あの細長いえだから黃色な花が落ちて、靑々とした新芽が吹き出した頃から見ると、今は柳も髪を長く垂れ下げた女のやうにかたちづくつて居る。長閑なやうであわたゞしい、樂しいやうでふうの多い、努力の苦痛くるしみと浪費の悲哀かなしみとで滿たされたやうな―若い、新しい、壯んな感想のする時節は、樹までも斯う苦勞させた。新造と言ひたいが、柳は最早年增にしか見えなかつた。(島崎藤村氏『春』)
吾輩も少々氣の毒な感じがする。ちつと景氣を付けてやらうと思つて、「然し鼠なら君に睨まれては百年目だらう。君は餘り鼠を捕るのが名人で鼠許り食ふものだから、そんなに肥つて色つやが善いのだらう。」黑の御機嫌を取る爲めの此の質問は、不思議にも反對の結果を呈出した。彼れは喟然として大息していふ。「考げえると詰らねえ。いくら稼いで鼠を捕つたつて――一てえ人間程ふてえ奴は世の中に居ねえぜ。人のとつた鼠を皆んな取り上げやがつて交番へ持つて行きあがる。交番ぢや誰れが捕つたか分からねえから其のたーんーびに五錢宛くれるぢやねえか。うちの亭主なんかおれの御蔭で、もう壹圓五十錢位儲けて居やがる癖に、碌なものを食はせた事もありやしねえ。おい人間てものあ體の善い泥棒だぜ。」さすが無學の黑も此の位の理窟はわかると見えて、頗る怒つた容子で、脊中の毛を逆立てゝ居る。吾輩は少々氣味が惡くなつたから善い加減に其の場を胡魔化して家へ歸つた。此の時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。(夏目漱石氏『吾輩は猫である』)
我等は曾て理性に向つて、罪業の瘢を痊やさむことを求めき。而して理性は輙ち、「爾の善業を積んで之れを賠へ。」と、いと峻嚴に應ヘたり。我等は奮然起つて、再び健鬪の途に上れり。再び傷痍を被れり、再び理性を呼べり。而して理性の應ふること故の如し。鳴呼、々々、人は理性の自恃以外に、何物をも要せずと言ひ得るほどに、至醇なりや、至疆なりや、至大なりや。至大、至醇、至疆のもの、我れの衷にありとは自知す、而かもそは現實の我れ、經驗の我れを超ゆること常に百步す、我れ一步を擧ぐれは、彼れ亦一步する也。現實の我れは、依然として蹌踉たり、蹣跚たり、依然として躓く也、傷く也。鳴呼理性の力は偉也、されども理性は果たして、我等が罪業の血潮を名殘なく拭ひとる程の力を有する乎。理性の聲は嚴厲なり、そは正義の聲なり、そはエホヷ神の聲なり、そは目もて目を償ふ公正律の聲なり。我等は屢〻淚を以て理性に訴へたり、されど理性は淚を以て之れに應へざるなり。されど我等は果たして、我等が性の脆弱より來たる無限の罪業をば悉く善業もて償ひ得べしや。理性は依然として、「然かせよ、然かせざるべからず。」と命ずる也。その峻嚴一步を假さゞる超現象的權威に面するもの、誰れかカントと共に、肅然として襟を正さざる。げに、この莊嚴なる聲に起つて、無限に煩悶しゆくところに、沈々として聲なき人生の大いなる戰はあるなり。(綱島梁川『病閒錄』)
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