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第一 主として結體の原理に基ける詞姿

 第五章 諷喩法

 二一 諷喩法はまた寓言法ともいふ。表面上本義を全く隱して唯だ喩義のみを揭げ、喩義を透ほして本義を察せしむる所に趣味ある詞姿である。平たくいへば餘所事を言つて眞意を思ひつかしむるが主眼で、例へば木から落ちた猿の話に事よせて世渡り上手の成上がり者を諷じ、金の釜を掘り當てた爺婆ぢゝばゝの物語に因果應報の理を寓する類ひである。故に形式上よりいへば、諷喩は隱喩を更に緊縮したものと云つてよい、「燕雀何ぞ鴻鵠の志を知らむや。」といふ諷喩は、直喩ならば「燕雀の如き小人物何ぞ鴻鵠に比すべき大人物の志を知らむや。」とあるべきもの、而して之れを煎じ詰めて「彼等は燕雀のみ、何ぞ吾等鴻鵠の志を知らむや。」としたるが隱喩、更に煎じ詰めて全く本義を削り去つたのが諷喩である。言ひ換ふれば、喩ふる者と喩へらるゝ者とが相似(似たり)の關係に表はされたのが直喩、相即(なり)の關係に表はされたのが隱喩、而して其の關係を全く斷絕して本義を讀者の想像に任せたのが諷喩である。しかしながら表面上關係を斷絕するは裏面に於いて更に關係を密にする所以で、其の本義の顯はならざるより、他の說を容れぬ剛愎我慢の徒も之を聞いて我れ知らず納得の首を傾け、諷刺あてこすられた者も怒るに怒られずして腹をゑぐらるゝやうに感ずる。即ち、諷喩は言を和らげ奧床しくすると共に、透過一層の銳さを增す効力ある詞姿で、之れを巧みに用ゐれば其の敎育感化の上に於ける効力、直喩隱喩の及ばぬ所がある。故に此の詞姿の用ゐらるゝは、殆んど敎化、諷刺、若しくは自己の主張をほのめかす場合に限られた趣がある。桃太郎、かち〳〵山、猿蟹合戰を初めとして多くの御伽噺、エソププ、レスシング等の寓言、莊子の寓言、馬琴の『夢想兵衞胡蝶物語』等は敎化諷刺を主とせるもの、西鄕隆盛が兵を擧げる時都の友に寄せたる歌、

ふるさとの谷間を出でしほとゝきず都の闇を月の夜にせむ。

の如きは時鳥によせて己が志をほのめかしたものである。


 二二 諷喩を分けて、第一、單に類似したる事實を擧ぐるもの、第二、事實あり得べからざる事を假作して之れに本義を寓するもの、第三、實際有り得べき事を假作して之れに本義を寓するものの三つとする。第一、單に本義に類似した事實を擧ぐるとは「犬もあるけば棒にあたる。」の諺の如く、「人も」の一句を加ふれば直ちに直喩となるものである。例へば、豐臣秀次が遊行上人の持戒を疑つて「上人は霞のころも霧の珠數あまけ離れぬ空念佛かな。」といへるに對して、上人の讀んだ歌、

水鳥は水に入りても羽も濡れず海の魚とて鹽もしみめや。

の如き、或は

鷦鷯みそさゞい深林に巢ふ一枝に過ぎず、偃鼠はつかねずみ河に飮む腹に滿つるに過ぎず。(『莊子』逍遙遊)

の如きは第一種に屬する諷喩で、諷喩中最も簡單なるものである。第二、事實あり得べからざることを假作するものとは、例へば、

鷹の羽にすむ蟲ありけり。空高く飛び翔る時は遙かに人の住家などをも見下しつ。げにわれは事足れる身かな、翼も動かさで千里の遠きに行き通ひ、雲ゐのよそまでもあがるめり。殊にさま〴〵の鳥は皆恐れて逃げ走る。げにもわれに勝つものは大かたあらじなど思ひつゝ、かの鷹の毛の中に居つゝ頻りにしゝむらを刺し血を吸ひて居しが、其のやからいと多くなりもて行きしにや、遂に其の鷹もたふれにけり。それより自ら出でて飛び翔らむと思へども飛び得ず、走らむと思へども速かならず、血も盡き肉むらもかれぬれば、今は命繫ぐやうもなし。辛うじて先づ其の毛のうちをくゞり出でてはひゆけば、雀の子の居たりけり。われを恐れなむと見れば、雀の子は知らぬさまなり。如何にして見つけざるかと傍へはひ寄れば、嬉しげに見て、嘴さし出だして啄まむとす。例なきことなれば恐ろしくて逃げ隱れぬと、かの友どちに語りにけり。(松平定信『花月草紙』)
猿狐にむかひていふやう、「我が眞似得ぬほどに怜悧かしこき動物あらば語れ。」狐答へていふ、「汝を眞似むと思ふほど卑しむべき動物何處にあるか、我れに語れ。」(レスシング)

一は主の威を借る小人を諷じ、一は摸倣を事とする文學者を諷じたのである。蟲、獸の物いふ筈はないが、一幕隔てゝ人事を察する所にえも言はぬ妙味がある。第三、實際あり得べき人事を假作するとは、例へば、

或者子を法師になして、學問して因果の理をも知り、說經などして世渡るたづきともせよといひければ、敎のまゝに說經師にならむ爲めに先づ馬に乘りならひけり。輿車もたぬ身の、導師に請ぜられむ時、馬など迎へにおこせたらむに、桃尻にて落ちなむは心うかるべしと思ひけり。次ぎに、佛事の後酒なんどすゝむることあらむに、法師の無下に能なきは檀那すさまじく思ふべしとて、早歌といふ事を習ひけり。二つのわざやう〳〵境に入りければ、いよ〳〵よくしたく覺えて嗜みけるほどに、說經習ふべき暇なくて年よりにけり。(吉田兼好『徒然草』)

の如きをいふ。又事實を有りのまゝに云ふ時にも、或は夢に、或は異国の事に假託する類ひは、一種の諷喩と見て差支ない。廣くいへば、小說の類ひは悉く一種の長い諷喩とも見られる。
 第二類の諷喩の中、鳥獸蟲魚に物いはしむるものは、無生物に生を賦し下等動物を人に擬する詞姿で、一種の活喩法である。但し、諷喩は實を隱して假の中に寓せしむるもの、活喩は無生物、下等動物の活動方面をを誇張して人間に擬したるもの、二者が詞姿として取り扱はるゝ標準が全く違ふ。又諷喩は直喩と同じく結體、增義、存餘、朧化、融會、奇警、順感の七原理に關係して居るが、本義を隱す形式を見ても知らるゝ通り、其の中存餘の原理が最も重きをなして居る。故に本來、後の存餘の原理の中に說くべきであるが、便宜上他の譬喩式の詞姿と一緖にして茲に說明した。此の詞態を用ゐるに嘗たつて注意すべきは、假託の喩義によつて容易に本義の眞意を知り得べからしむることである。

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