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直喩 ちょくゆ simile
——『ARIA』2巻107〜108ページ(天野こずえ/マッグガーデン BLADE COMICS) それは とっても澄んだ
不思議な音色でした——

この惑星に住むすべてのものが
お互いに ひかれあう力を
生みだす源

それは まるで
火星(アクア)が奏でる
星の歌声のようでした
——『ARIA』2巻107〜108ページ
(天野こずえ
/マッグガーデン BLADE COMICS)


定義重要度

直喩は、「○○みたいな」とか「○○のような」などのように、「たとえ」であることが明らかになっている表現方法を採用しているタイプのものをいいます。


効果

効果1理解する助けになる

人間は、具体的なイメージがわかないものは、理解しにくいものです。そこで、なにか身近なものにたとえることで、より分かりやすくすることができるようになります。これは、たとえば理科の時間に「電流」を教えられるときなど、現実に多く使われている「直喩」の効果だといえます。
:理解、解する、飲みこむ、解釈、消化、うなずける
効果2相手が知らないことを明らかにする

これは、上の効果と似ているのですが。理解の助けというメリットは、たんに自分のためだけが受けるのではありません。会話をしているとき、その話し相手が理解するのをサポートすることにもなります。
:明らか、はっきり、明白、鮮明、判然、明示、明確、的確、きちんと、きっちり
効果3間接的でソフトな伝えかたができる

「隠喩」をつかうと、かなり直接的でダイレクトな表現になります。ですが「直喩」では、「○○みたいな」という間接的な伝え方になります。
:間接的、やわらかい、ソフト、おだやか、穏健、やわらか、おとなしい、やんわり
効果4想像力やイメージを広げることができる

「直喩」は、「もともとの、たとえられことば」と「たとえるために使われることになったことば」の2つが出てきます。そして、「○○みたいな」といったことばを使うことによって結びつけられることになります。そのため、合計で3つの「ことば」のあいだで、いろいろなイメージを思いえがくことができます。
:イメージ、主観、想像、連想、想像力

使い方
使い方1「たとえ」だと分かる目印をつかって結びつける

「たとえるもの」と「たとえられるもの」とが、「たとえ」だと分かる目印によって結びついているもの。それが、「直喩」です。なので、
1)たとえることになる、もともとのコトバ
2)たとえとして使われることになるコトバ
3)その2つを結びつけて、どこが似ているのかを示すコトバ
という3つをそろえることで、「直喩」をつくりだすことができます。
:目印、印、マーク、標識
使い方2似ているものを「たとえ」として使う。

「直喩」は、もともと使うはずだったものと「似ていることば」を使って表現します。
:印象、感じとる、感性、ぴんと来る

注意

注意1使う場面によっては不向きなこともある

「直喩」は、たとえることによって「より分かりやすく」するために使います。ですので、「詩」のように「行間を深く読みこむ」表現をつくるときには、あまり「直喩」は使いません。
注意2「決まり文句」となっている「直喩」が多い

「決まり文句」となっている「直喩」も、たくさん見かけることができます。たとえば、「脱兎のごとく〜」という表現は、「○○のごとく〜」というカタチをとっています。ですので、「直喩」だということができます。ですが表現がありきたりのなので、聞き手=読み手に強い印象を与えることはできません。
:紋切り型、パターン、典型、古い、古くさい、常套句、お決まり、ステレオタイプ化、冗漫



例文を見る例文を見る(末尾)

用は、『ARIA』2巻からです。

とりあえず舞台設定を、かんたんに書いておくと…。

火星に移住し、火星で暮らしをしている人々。じつは、火星の地下には「地重管理人」という人たちがいて、火星の重力を1Gに維持してくれている。その重力維持をするときに使うのが、オルガンのようなかたちをした装置。このオルガン(ような装置)で音を奏でて、それで重力を維持しているわけです。そして、このオルガンを使うときに、音が演奏される。

だから、重力の維持をすると、 
「不思議な音色」がする。
「この惑星に住むすべてのものが お互いに ひかれあう力」、つまり重力の音がする。
そして、
「それは まるで 火星(アクア)が奏でる 星の歌声のようでした」
といった表現になっているわけです。

この表現は、「まるで○○のようでした」というかたちになっています。ですので、「直喩」ということになります。



レトリックを深く知る

この「直喩」は、いろいろな種類のあるレトリックのなかでも代表的なものです。そのため「直喩」の特徴については、多くのことが指摘されています。

深く知る1「とりあえずの」定義——「類似性」をあらわす

いちおうの定義としては。
「直喩」は、「○○のような」「まるで○○みたい」といったようなカタチをしたレトリックの表現だといえます。

そして。
そのような構造をしている、ということは。「たとえるもの」と「たとえられるもの」とが似ていることを示していることになります。「○○のようだ」というのは、つまり「△△と××とは、○○というところが似ている」ということに、ほかなりません。

そういった「○○という点で、2つのものは似ている」ということから。レトリックの世界では「直喩」のことを、「類似性」によって結びつけるレトリック」だと説明します。

…と。ここまでは、一般的な説明なのですが。

このごろ、「直喩」のことを「類似性を創りだす表現」だとする考えかたが広がってきています。そこで、次のトピックでは、そのあたりをくわしく書くことにします。
:類似、似る、類する

深く知る2「もっとくわしい」定義

すぐ上に書いたように。「○○のような」とか「○○みたいな」といった目印があるものを「直喩」とする。こういった定義でも、的はずれとはいえません。厳密に考えなければ、目印があるかそうかによって判断して問題ありません。なので、この定義で十分のようにも思えます。

ですが。
上に書いた定義は、あくまで「厳密に考えないばあい」なのです。「とりあえず」の定義であるのは事実です。

そのことから。
レトリック学者が必死になって、すべての「直喩」に当てはまる「共通のもの」を探しました(今でも探しています)います。そしてその結果として、
「直喩」は、意外なことばどうしを結びつけることができる

その結びつけの結果として、創造性を示すことになる
という2つの性質があることが、強く言われるようになってきました。

そこで。
これより下では。その2つについて、くわしく見ていくことにします


「直喩」は、意外なことばどうしを結びつけることができる

「隠喩」は、「○○みたいな」といった目印をつけません。これに対して「直喩」は、「○○みたいな」といった目印をつけることになります。

そのように、2つを分けて考えてみると。

たしかに、「隠喩」は見た目がスマートかもしれません。目印である「○○みたいな」というものがないということは、短いことばで多くのことを伝えることができる。それは、たしかです。

ですが。
逆にいうと「直喩」には、「○○みたいな」という目印がある。そのようにも考えることができます。そして、「○○みたいな」という目印があることが、メリットになる場合も十分にありえます。

それは、
ふつう結びつかないことばを、強引に結びつけることができる
ということです。

つまり。
「隠喩」のほうは「○○みたいな」という目印がありません。ですが、「○○みたいな」といった目印がないということは、その分だけ「常識的な」結びつけになるということです。なぜなら、聞いたことも見たこともないようなフレーズをぶつけられたら。それは、意味不明な文となってしまうからです。

それとくらべると。「直喩」のほうが、安心して使うことができます。
「直喩」には、「○○みたいな」という目印があります。目印があるということは、そのフレーズが「たとえ」だということを伝えていることになります。なので、聞き手=読み手の側そしても「たとえ」なんだな、ということが分かる。そういったわけで、「直喩」が意味不明の文になることは少ない。

けれども。
かなり常識からズレた表現があるとする。かりに、もしそのような表現を「隠喩」でしてしまうと。それは、意味不明の文になってしまいます。ですので、目印のついていない「隠喩」では想像を越えるような表現ができないのです。

:意外、思いがけない、思いもよらない、予想外、新鮮な、新しい、生き生き、奇想天外、真新しい、型破り、奇抜、特異、斬新、視点、着眼点、ピント、角度、目新しい、意表をつく、思いがけない、図らずも

その結びつけの結果として、創造性を示すことになる

そして。このこと考えを、進めていくと。
「直喩」は、いままであった常識では計ることのできないような考えかたを表現することができる。それは、これまでとは違った結びつきを、新しく生みだすことができるということです。

レトリックの学者さんたちは、これを
  • 意外な創造性を《提案する》比較表現が直喩だということになる。

  • レトリックの直喩とは、《発見的認識》である。
といったりします(引用は、『レトリック感覚』98ページから)。
:創造、創りだす、生みだす、生まれる、考えつく、発想する、考え出す、発見、見つける、見いだす

深く知る1「直喩」が使われる場面


ピッタリと当てはまることばがないときに

わたしたちは日ごろ、いろいろな場面に出くわします。いろいろなものを見たり、聞いたりします。

そして、その出来事をだれかに伝えたいということも、良くあることです。わたしたちは、ひとりで生きているわけではありません。いろいろな場面と出会います。そして、そのような日常のなかでは、ある状況を自分以外の誰かに伝えたいということも多くあります。

そんなとき人は、ことばを使います。ことばを交換しあうことによって、相手に自分の見聞きしたものを伝達します。それが、相手に対して何かを伝えたいときにとる、ごく自然な方法です。

が、しかし。
ことばは、完全ではないのです。

たしかに多くの場合には、辞書にのっていることばを使うことによって、相手に物事を伝えることができます。よく起きるような出来事であるとか、たびたび直面する状況については、もとからあることばを使えば、十分に意思の伝達をすることができます。

ですが、わたしたちが出会うことは、必ずしもパターンどおりの出来事だとは限りません。今まで考えもしなかったようなことだとか、これまでは思いもしなかったような状況に接することもあります。
そして、そのような考えもしなかったような状況は、必ずしも、もとからあることばで正確に伝えることはできません。過去には出会ったこともなかったような現象は、ことばで上手に表現することができないことがあるのです。

なぜなら、ことばには「限りがある」のに対して、現実には「限りがない」からです。

ことばには「限りがある」ということ、そのことは、国語辞典という存在が物語っています。もちろん、国語辞典にはたくさんのことばが掲載されています。そして、国語辞典に書かれていることばを使えば、たいていのことは相手に伝えることができます。

しかし現実には、ありえないと思われていたようなことに直面することもあります。つまり、現実には「限りがない」のです。そして、そのような時には、国語辞典に掲載されていることばでは伝えられないということが起きます。なぜなら国語辞典は、今までにあった状況を伝えるために考え出されてきたことばをまとめたものだからです。それは、目の前で起こったまったく新しい出来事では対応しきれないことが出てくる、ということです。なので、たった今そこで起きていることをピッタリと当てはまることばがない、ということがありえます。

そんなときに使われるのが「直喩」を代表とした、さまざまな「レトリック」です。

「○○みたいな」とか「○○のような」とか、そういった「直喩」を使う。もちろん、そのことばの意味とは100%同じだというわけではない。でも、それによく似た出来事にはちがいない。そんなときに、今まで経験したなかで「よく似た出来事」だったものを利用して、何とか相手に伝えようとする。つまり、「○○みたいな」だとか「○○のような」だとか、そういった表現を使うことによって、どうにかして対応しようとする。それが「直喩」です。

深く知る4「直喩」が歩んできた歴史
「直喩」の歩んできた歴史、それは、冷たい扱いを受け続けてきた歴史だということができます。
そんな扱いは、アリストテレスの時代からはじまって、現代にいたるまで続いてきています。


「直喩」は簡潔ではない

アリストテレスは「直喩」について、「隠喩」よりも価値が低いものだと考えました。

つまり、「直喩」は「隠喩」をムダに長くしているだけだ。「○○みたいな」とか「○○のような」とかいったことばを加えているので、簡潔でない。
それに対して、「隠喩」は「直喩」を短くまとめている。「○○みたいな」とか「○○のような」とかいったことばがないので、合理的なものだ。

そういったわけでアリストテレスは、「直喩」を「隠喩」よりもレベルの低いレトリックだと位置づけました。「直喩」は合理性を欠いた表現なので、「隠喩」に及ばないものだとして区別されました。

そして「直喩」については、そういったところからスタートします。


「直喩」は転義ではない

さらに時代が進むと、ますます「直喩」にたいする扱いは悪くなっていきます。
そしてとうとう、「直喩」は転義ではない、ということまで行きつきます。

どういうことかというと。

「転義」というのを、カンタンに説明することはできませんが。とりあえずとして「表現のために使っていることばが、もともとの意味ではないことを言うために使われる」と、そういったものを「転義」といいます。

つまり「転義」というためには、ことばが本来持っていた意味を変えていなければならない。ことばが文字どおりの意味として使われるのではなく、変化した意味で使われていなければならない。ことばが、もともとの意味ではなく比喩としての意味として働いていなければならない。

そこで「直喩」について考えてみる。すると、「たとえるもの」と「たとえられるもの」の両方が、文字どおりの意味で使われている。

そのため、「直喩」は転義ではない、という結論になるのです。つまり、「直喩」による表現は単に「たとえるもの」と「たとえられるもの」とを比べているにすぎない、ということになるのです。

このことに加えて。中世にあると、修辞学が「隠喩を中心とした転義のある表現」だけを扱うようになっていきました。つまり修辞学は、「転義」という「もともとの文字どおりい使われてはいない」表現だけを研究するようになりました。

このような理由で。
ばあいによっては「直喩」は、(「転義」だけを扱う)修辞学からは、ほとんど見向きもされなくなりました。


「直喩」のもつ創造性

しかしながら近年、「直喩」の新しい面が脚光をあびています。それは、ひとことでいえば、「直喩」のもつ創造性です。

「直喩」は、「○○みたいな」とか「○○のような」とかいった目印を持っているレトリックです。そして、このような目印を持っているということには、重要なことが隠されています。

実は、「たとえるもの」と「たとえられるもの」とが本当に似ている必要がないのです。「○○みたいな」とか「○○のような」とかいったことばが置かれることになる「直喩」では、「たとえるもの」と「たとえられるもの」とがほとんど似ていなくてもかまわないのです。「○○みたいな」とか「○○のような」とかいったことばによって、強制的に似ているものとして扱われることになるのです。つまり、常識では似ているとは思えないものを、強引に似ているとすることができるのです。

ひとことでいえば、《直喩によって類似性が成立する》、ということです。

それは、新しい考えかたを示すことができるということでもあります。

このようなことを考えると。
「直喩」で使われる「たとえるもの」と「たとえられるもの」とは、ふつうならば似ているとは思えないようなものを並べたときに、いちばん効果的だといえます。つまり、「たとえるもの」と「たとえられるもの」とが似ていないほうが、斬新な表現になる。新しい発見を示す表現になる。いままで考えなかったような認識を生み出す。

そういった意味で、「直喩」は創造的なレトリックということができます。

深く知る5「直喩」と「隠喩」の振りわけ(——「直喩」と隠喩との境界)

「直喩」は、「○○みたいな」とか「○○のような」とかいったことばのあるレトリックです。つまり、「たとえるもの」と「たとえられるもの」との結びつきが、目印によって明らかになっているものをいいます。

「隠喩」は、「○○みたいな」とか「○○のような」とかいったことばのないレトリックです。つまり、「たとえるもの」と「たとえられるもの」との結びつきが、目印によって明らかになっていないものをいいます。

なのですが。
問題は、この「直喩」と「隠喩」とにあいだに、その中間のかたちともいうべきものがあることです。つまり、「直喩」と「隠喩」とは、はっきりと区別することのできないようなタイプがあるのです。

説明を分かりやすくするために、例文を書くことにします。
 ——「彼はキツネのようにずるい。」
ありきたりだとか、そういった抗議はしないでください。例文なんだから、いいんです。奇抜なレトリックよりはむしろ、使い古された文章のほうが都合がいいんです。とにかく、
 ——「彼はキツネのようにずるい。」
を例文にして進めていきます。

してみるに。

 

 
目印
(〜のようだ)
どこが似ているか
(ずるい)
彼はキツネだ。 ない ない
彼はキツネのようだ。 ある ない
彼はキツネのようにずるい。 ある ある
まず、「A:彼はキツネだ。」という文は「隠喩」です。「○○のようだ」という目印がついていないので、問題ありません。
——『eensy-weensy モンスター』2巻16ページ(津田雅美/白泉社 花とゆめコミックス)
葉月 オレが恋……
心臓のとこで花火が
打ち上がってる
かのような
七花
どーしたの?」
ヒョコ——)
ネギ
ビク——)
うわ——っ」
——『eensy-weensy モンスター』2巻16ページ
(津田雅美/白泉社 花とゆめCOMICS)

次に、「C:彼はキツネのようにずるい。」という文は「直喩」です。「○○のようだ」という目印によって、「たとえるもの」と「たとえられるもの」との関係が明らかになっているので、これも問題ありません。

この分類で困るのは、「B:彼はキツネのようだ。」という文です。たしかに「○○のようだ」という目印はついている。だけれども、「ずるい」という比較の根拠はついていない。そのため、「彼」と「キツネ」とのあいだに共通点があるのは分かる。けれども、どのあたりが共通しているのかが、文そのものからは分からない。

そのため。
このような文は、「直喩」というべきかそれとも「隠喩」というべきか。そこが問題となるわけです。

この点については、「直喩」に含めるべきだとする考えが多いようです。つまり、「どこが似ているか」という比較の根拠となる「ずるい」が書かれていなくても、「直喩」として扱かうとしている本が多いのではないかと思います。

そして、実をいうと。「B:彼はキツネのようだ。」のような文を「直喩」と見ることによって、はじめて「直喩」というレトリックが生きてくるのです。つまり、比較の根拠「ずるい」を明らかにしないかたちの「直喩」が、レトリックらしさを持った「直喩」だといえるのです。

たとえば、
右の画像は、『eensy-weensy モンスター』2巻。

ひょんなことから仲良くなったり。かと思えば、おとがい会話もしない関係になったり。まあ、そのへんの経緯については、くわしくは1巻から読んでいただくことにして。

この場面は、葉月が七花にたいして恋をしている。そのことを葉月自身が気がつくというシーンです。

で。
このシーンが、「直喩」なのか「隠喩」なのかというのルールにしたがって分析してみると。
たとえることば (オレの)恋は、
目印(〜みたい) 心臓のとこで花火が打ち上がっているかのようだ
どこが似ているか (書かれていない)
といったように、それぞれ当てはまることができます。

そして、この表現を先ほど書いた「A〜C」までの理論に当てはめてみると、、
彼はキツネのようだ。
Bの表現だと言うことができます。

そして。このような文が、議論のポイントとなっているのです。
つまり、こういった「B」のタイプを、「直喩」にするか「隠喩」にするか。そのということです。

これは、レトリックに関係する学者の中でも意見の分かれる点です。

深く知る6「直喩」と「単なる比較」との振りわけ(——「直喩」と「単なる比較」との境界)

よく「直喩」と間違われるものに。「単なる比較」でしかないという表現があります。

なぜ間違いが起こるかというと。それは、「単なる比較」のばあいであっても、「○○みたいな」「○○のような」というカタチになっているからです。

たとえば、
  • 彼は、織田信長のように意志が固い
  • 彼は、ダイヤモンドのように意志が固い
という2つの文があるとします。この2つは、ちょっと見たところ、同じだと思えるかもしれません。ですが、
  • 彼は、織田信長のように意志が固い    →単なる比較
  • 彼は、ダイヤモンドのように意志が固い  →直喩
というふうになります。つまり、まったく別々のものというわけです。

これを区別するためには。「〜のように」というフレーズのかわりに、「〜に比べて」という言いまわしにしてみる。そうすれば、すぐにわかります。

つまり、
  • 彼は、織田信長と比べてに意志が固い   →単なる比較
  • 彼は、ダイヤモンドと比べて意志が固い  →直喩
というふうに、キッチリ分けることができます。

「意志の固さは」というものは、「彼」と「織田信長」とどちらが「より固いのか」と比べることができます。それが「ウソ」なのか「ホント」なのかは知りません。ですが、「比較の対象となる関係となりうる」関係にあるのです。ですので、これは「単なる比較」にすぎません。

しかし。
「彼は、ダイヤモンドと比べて意志が固い」という文では、そうはいきません。なぜなら、「彼」と「ダイヤモンド」とでは、どちらの意志が固いのかということは比べられないからです。なので、「比較の対象となる関係となりうる」関係とはいえないのです。そのことから、ここには「直喩」というレトリックのチカラが働いているということになります。

で、大切なことは。
単なる比較」については、レトリックではない。けれども「直喩」は、レトリックである。そのことです。つまり、このサイトで考えることになるのは「直喩」だけだということです。「単なる比較」のほうは、このサイトで取りあつかないということです。

深く知る7いろいろな「直喩」のかたち
なお。
『比喩表現の理論と分類』(国立国語研究所/秀英出版)では、「直喩」にあたるパターンを次のように示しています。
  • 「カバのような口」
  • 「カバみたいな口」
  • 「カバそっくりの口」
  • 「カバに似た口」
  • 「カバ同様の口」
  • 「カバも同然の口」
  • 「カバも変わらない口」
  • 「カバに負けない口」
  • 「カバにもひけをとらない口」
  • 「カバをもしのぐ口」
  • 「カバも驚く口」
  • 「カパかと思う口」
  • 「カパにも疑われる口」
  • 「カバにも紛う口」
  • 「カバを思わせる口」
  • 「カバをしのばす口」
  • 「カバを髣髴させる口」
  • 「カバを想像させる口」
…ナゼ、例が「カバの口」なのかという疑問は置いておくとして、このような例をあげています。

だから、「直喩」になるのは、「まるで〜のようだ」とか「あたかも〜のごとく」くらいだと思っていると、「直喩」の表現を小さく見てしまうことにもなりかねません。

深く知る8「直喩」以外の呼びかた
「隠喩」というレトリックがあります。これは、「直喩」とは反対に、「○○のような〜」といった表現をつかわずにものをたとえるものです。なので「直喩」と「隠喩」は、多くの場面で2つのペアとして考えられることになります。

そのことから。
「直喩」のことを「明喩」、「隠喩」のほうを「暗喩」と呼ぶことがあります。

「直喩」のほう。こちらは、「たとえ」だということが「明らか」になっていることから、「明喩」とネーミングにする。それに対して「隠喩」については、「たとえ」だということが「明らか」になっていない。そのため「暗喩」と呼ぶ。

この表現を使うと。、「明喩」と「暗喩」というバランスがとれた言いかたにすることができます。つまり、「明喩」に対して「暗喩」というように、「明」と「暗」のバランスのとれた呼び方になります。

ですが。「明喩」と呼ぶのはマイナーで、「直喩」と呼ぶことのほうが一般的です。



レトリックの呼び方

呼び方5 隠喩
明喩
シミリー・シミリ



関連レトリック

隠喩提喩換喩

参考資料

●『レトリック感覚(講談社学術文庫 1029)』(佐藤信夫/講談社)

この本を紹介しておくのがベストだと思います。あまりレトリック関係のことを知らない人であっても、十分に読みこなすことのできる本です。これだけ「直喩」についてページ数を使っている本は、珍しいと言えます。しかも、それでいて「直喩」に対して新しい価値のを呈示しています。好著です。
●『戦略としての隠喩—日常言語・小説にみる「ことば」のしくみ—』(利沢行夫/中教出版)

昭和の時代に書かれた本としては。これだけ多くのページを使って「直喩」の解説をしているのは、かなり貴重。個人的には、上に書いた『レトリック感覚』の底本くらいしか見たことがない。



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