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換喩 かんゆ metonymy
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定義重要度

換喩は、…どのように定義したらいいのか、難しいレトリックの1つです。とりあえず、『ある事物を表わすのにその属性あるにはそれと密接な関係あるもの(容器・作者など)を以てすること』としておきます。


効果

効果1「換喩」の経済性

「西陣で織られた布」が「言葉の経済性」によって省略されて「西陣」になった、など。
:経済性、引きしめる、倹約、節約
効果2「換喩」の表現性

その一番特徴的な部分が「赤ずきんをかぶっている」ことから、「赤ずきん」になった、など。
:表現性、あらわす、言いあらわす、書きあらわす、言いまわし、表する
効果3「換喩」の婉曲性

「袖がぬれる」ことで、「涙を流す」ことを婉曲に表現している、など。
:婉曲性、持って回った、遠回し

使い方
使い方1「換喩」の日常性

換喩は、いつも使うような日常的な言いまわしといえます。つまり日ごろの生活の中で何気なく使っていて、それが「換喩」だとは気がつかないことが多いものです。
:日常性、毎度、毎回、常、常に、しょっちゅう、常時、日ごろ、常日ごろ
使い方2「換喩」の普遍性

換喩は、言語の違いによって左右されることはない。
:普遍性、通常、尋常、通有、通例、世の常
使い方3「換喩」の代表性

換喩は、言葉をもっとも目立つものに置きかえる効果をもちます。
:代表性、代わる、代わり、代える、取って代わる、成り代わる、なぞらえる



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レトリックを深く知る

深く知る1「換喩」の定義
『ある事物を表わすのにその属性あるにはそれと密接な関係あるもの(容器・作者など)を以てすること』。これが、《定義》のところで書いた「換喩」の定義です(『研究社英語学辞典』(市河三喜[編著]/研究社)より、原文は旧漢字旧仮名づかい)。

これを、少し掘り下げてみます。

「換喩」をなんとか短く説明しようとすると、つぎのようになります。
表現したいことばを使うかわりに、
その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック
これを「換喩」と呼びます。
ただし、
その「近くにあることば」というのは、実際にモノどうしが近くにある
というだけではなくて、
時間の前後という関係で、近くにあるモノ
人が考える時に、近くだと考えるモノ
であっても、「換喩」に含まれます。

例を1つ、あげてみると。
ナベが煮える
という表現。これは、「換喩」にあたります。
どうしてかというと、
実際に煮えているのは、ナベではなく「ナベの中身」だから
です。ここでは、厳密にいえば「ナベの中身」が煮えている。だけれども代わりに、近くにある道具としての「ナベ」でもって表現しています。ですので、「換喩」というレトリックにあたるわけです。

深く知る2「換喩」の説明文が、「ナベが煮える」とかいうものになる理由

すぐ上の所で、「換喩」の例文として「ナベが煮える」というものを書きました。この「ナベが煮える」というのは、ありきたりのレトリックっぽくない文です。ほかにも「換喩」の例を1つ書いてみると、
白バイが追ってくる
というヤツも、「換喩」です。白バイは、バイクです。バイクが、ひとりでに勝手に追いかけてくるということは、ありません。実際に追ってきているのは、「白バイにのった警察官」のはずです。というわけで、ここで書いた「白バイ」というのも「換喩」ということになります。

といったわけで、この「換喩」というレトリックは。
ふだんの生活で、気にとめることなく使っていることが多いレトリックです。というよりもむしろ、「換喩」を使った言いまわしのほうが「ふつう」だとさえ思えます。なにか警察官に追いかけられるようなことをして、逃げている。なのに「白バイにのった警察官が追ってくる」なんていう、ムダに長い言いかたをするとは考えにくいです。

といったわけで「換喩」は、ありきたりすぎてレトリックっぽくないのです。

ですが。
気にもとめないで使っているということを理由として、「換喩」の価値が下がるわけではありません。気にとめることなく使うということは逆に、「換喩」は人間のココロに強く根ざしている重要なレトリックだということができます。

深く知る3「提喩」—「換喩」—「隠喩」という3つの関係

さて。
この「提喩」—「換喩」—「隠喩」というものを、どのようにバランスをとって位置づけるか。そのことは、そのまま「換喩とは何か」ということにつながります。つまり、「換喩」についての定義をどのようにするかということと、深く密接に関係するわけです。

なので、ここには突き詰めたことは書きません。そういったことは、《レトリックを深く知る》のコーナーに、イヤというほど書いておきました。

ですので。
いろいろと、説や考え方が分かれているのですが。ここには、かるく「箇条書き」で書いておくにとどめます。
1. 「提喩」と「換喩」との区別をあきらめる立場
「提喩」と「換喩」とを、キッチリ分けることは不可能。
なので、これを1つにまとめようとする考えかた。
このように考えると、「提喩」と「換喩」とは同じグループで、「隠喩」は別のグループということになる。
2. 「隠喩」を「二重の提喩」とする立場
1回だけのカテゴリー変換を「提喩」として、2回のカテゴリー変換を「隠喩」とする考えかた。
このように考えると、「提喩」と「隠喩」とは同じグループで、「換喩」は別のグループということになる。
3. 「換喩」を「隠喩」に含める立場
「換喩」について「隠喩」と区別をつけないでおく考えかた。
じつはアリストテレスがはじめに「隠喩」という用語を使ったときの意味は、これにあたる。
このように考えると、「換喩」と「隠喩」とは同じグループで、「提喩」は別のグループということになる。
4. どうにかして、「隠喩」と「提喩」と「換喩」の3つを区別しようとする立場
「隠喩」と「提喩」と「換喩」の3つは、それぞれ違ったものだとする考えた。
これについての理屈づけは、いろいろある。
けれど、とりあえずそういったことを目指している説はみんなここに入れることにする。
ほとんどのレトリック学者は、理想としてはこれがGOODだと思っているはず。
このように考えると、「隠喩」も「提喩」も「換喩」も、それぞれ別のグループということになる。
とまあ。かるく「箇条書き」とかいいながら、長くなってしまいました。でも、これでもサワリ程度なんです。ことば足らずなところ、理論不足なところが目につきます。でも、このくらいの説明にとどめておきます。

深く知る4「換喩」の定義

次にいくつかの説明の方法を書いて、この「換喩」に迫っていくことにします。

深く知るaとりあえず条件が並ぶ——古くからの定義

使い方1古くからの伝統的な考えかた
古い時代。
この「換喩」は、「換喩」に当たるパターンをならべて、その説明にしようとしていました。
具体的には、たとえば次のようなタイプに分かれるとされていました。
  1. [全体で部分]:「笑う門に福きたる」の「門」は「家」を表す。他に「大陸」で「中国」など
  2. [入れ物で中身]:「お銚子」で「お酒」、「球場」で「観客」など
  3. [産地で産物]:「九谷」で「九谷産焼き物」、「西陣」で「西陣産の織物」など
  4. [主題で場所]:「広島を忘れるな」の「広島」で「原爆」。他には「永田町」で「政界」など
  5. [原因で結果]:「ユニフォームを脱ぐ」で「引退する」、「筆をとる」で「書く」など
  6. [結果で原因]:「冷や汗が出る」で「恥ずかしい」、「あくびが出る」で「退屈」など
  7. [主体で属性(特徴)]:「白バイ」「赤帽」。他に「社長」「先生」でそれに当たる人間を指すなど
  8. [人で物]:「シェークスピアを読んだ」「モーツァルトを聴いた」でその作品を表すなど
といったように。古典的には「換喩」は、「換喩」に当たる場合を列挙しているものばかりでした。つまり、「換喩」を1つの言葉にまとめられることはありませんでした。

なお。上に書いた「列挙」は、『レトリック入門—修辞と論証—』(野内良三/世界思想社)からの引用です。
いかんせん「列挙」なので、「数多くならべようとするヒト」もいるし、「なるべくコンパクトにしようとするヒト」もいる。ここでは、わりと多くのパターンをあげている『レトリック入門』から引用してみました。
使い方2古くからの説明がもっている欠点
ただ、困ったことに。
このような「列挙」には、大きな欠点があります。それは、
どうしても、もれなくカバーすることができない
ということです。
このことを理解するために。まったく違うジャンルでのことを、考えてみます。
たとえば、
哺乳類(ほにゅうるい)とは、どういった動物か?
という質問をされたとき。もしも「哺乳類」を「列挙」して、
「サル」とか「牛」とか「ネズミ」とか「アルマジロ」とか…
とかいう答えをすると。一見したところ、うまくいくように思えます。ですが、
  • クジラは「哺乳類」?
  • コウモリは「哺乳類」?
といった、ヘンな質問が出てくることがありえます。クジラのように「魚」っぽいものを、「哺乳類」だと説明したい。コウモリのように「鳥」っぽいものを、「哺乳類」だと分かってもらいたい。そんなときに、「哺乳類」を「列挙」しただけでは追いつかないことがありえます。

で。はなしを「換喩」にもどすと。
「換喩」についても、「哺乳類」の説明のときと同じように。「換喩」の典型となるようなものを「列挙」しただけでは、どうにもならないような「例外」が出てしまうのです。

まあ。そんなわけで。
この「列挙」をつかって「換喩」の説明をすることで満足しているレトリック学者は、たぶんゼロです。
使い方3それでも、古くからの説明がなくならない理由
ただし、上に書いたように「列挙」を使って説明しようとすること。これが、なくならないのです。

どうしてかというと。
この「列挙」という方法で、大半の「換喩」がカバーできる
からです。

たしかに、学問としては。「列挙」して説明しようとするのは、決してスマートではありません。ですが、現実に書かれたり読まれたりする言いまわしが「換喩」かどうかを判断するときには。この「列挙」でも、ほとんどのばあい問題が起きないのです。

といったわけで。
事例を「列挙」することで「換喩」を説明しようとすることは、今でも行われています。

深く知るb「近接性」とか「縁故性」とかによる定義

使い方1いま現在での一般的な考えかた
上に書いたように。「列挙」によって定義するのは、レトリック学者だって満足しません。

ですので。いちおう、まとまった定義を用意しています。
それは、最初のところで書いたように、
表現したいことばを使うかわりに、
その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック
というものです。

使い方2ことばの言いまわしについての注意点
さて。いまここに、
表現したいことばを使うかわりに、
その表現したいことばの近くにあることばを、代わりにつかうレトリック
と書きました。ですが、この「近く」という言いまわし。レトリック関係の本を見てみると、ちょっと違う書きかたがされているはずです。具体的にあげると、
  • 隣接性
  • 共存性
  • 有縁性
  • 継起性
  • 縁故性
  • 近接性
といったかんじで。なにやらゴテゴテとした単語で、説明してあるはずです。

なのですが。結局のところ、どのことばを使ってもおなじです。というのは、どういうことなのかというと、
日本語に翻訳する時に、いろいろなレパートリーができただけ
だからです。
ヤコブソンっていう人(もちろん外国人)がいて。その人が、さいしょに考え出したもので。ようするに、ヤコブソンが書いたものを日本語に翻訳したときに、いろんな呼びかたができてしまった。といったわけです。

なので。隣接性とか継起性とかいう、それぞれのことばがもっている小さな意味の違いは、気にしなくてかまいません。
もしも、この「気にしなくてかまいません」という説明では信じられないという方は。英和辞典でもって、「contiguity」の項目を調べてみてください。

深く知るcこのサイトに書かれている、「換喩」の定義について

使い方1このサイトでの「換喩」の定義

そういったわけで、いままで書いてきたように。
「換喩」を定義するために使われている用語は、いろいろあります

そして、このサイトでは。「近く」にあるかどうかを基準として、「換喩」かどうかを見分けていくことにします。

たしかに。
この「近く」ということばをつかって「換喩」を説明するのは、次に書くような2つの点で問題があることも事実です。つまり、
  • 近く」ということばを使うこと、それ自体が「比喩」だということ。
    いいかえれば、
       比喩にあたるような「近く」という言いまわしをつかって、
       比喩の一種である「換喩」を説明しようとしている
    ということ。
     →なので、どうしても学問的なものとはいえない。

  • ここで使っている「近く」ということば、これは。
    「隣接性」とか「近接性」とかいった決まった呼びかたが、ほかにあること。
    (学者よって違いはあるけれど)
     →なので、ある程度レトリックを知っている人が読んだばあい、反対に混乱しかねない。
この2つについては、よく分かったうえで。
あえて「近く」ということばを使って、「換喩」を説明していきたいと思います。

使い方1そして、念のため。
そして。念のため、もう1度書きますが。
ここでいう「近く」にあるという言いまわしは。
かならずしも、モノどうしが隣りあっているというだけを意味しているものではない。
ということには、十分に注意して下さい。

たしかに。
「ナベが煮える」という言葉づかいでもって、「ナベの中身が煮える」ことをいう。そういった、モノとモノどうしが現実に「近く」にあるばあいにも「換喩」にはなります。ですが、
  • 「冷や汗をかく」でもって「恥ずかしい」ことを表すように、
    時間的に「近く」で起こったものでもって言いかえているばあい

  • 「久谷」でもって「久谷産焼き物焼」のことを表すように、
    人間がイメージするときに、アタマの中で「近く」にあるもので言いかえるばあい
のようなものであっても、「換喩」になります。
とくに、「人間がイメージするときに、アタマの中で「近く」にあるもので言いかえるばあい」というヤツ。これが、「換喩」を分かりにくくしているのです。けれども、この点を注意しておかないと。たとえば、
  • 「夏目漱石を読む」でもって「夏目漱石の書いた本を読む」ことを表す
といったものが「換喩」にあてはまること。そのことを、うっかり忘れてしまうことがあります。

深く知る5「換喩」についての厳密な定義
いちおう、レトリックに関する学者は。
もとのことばのかわりに、「近く」にあることばを使うこと
というあたりでは、だいだい意見がそろっています。
近く」という単語がイヤならば、「隣接性」でも「縁故性」でもいいです。とにかく、その「隣接性」ないしは「縁故性」というヤツががあれば、「換喩」だと考えるのが今ではふつうです。

なのですが。
この 「近く」かどうかで見分けるというのが、やたらと難しいのです。 「近く」にあるかどうか、というのでは判断がキッチリとできないのです。

そんなわけで、さいきんでは。
この 「近く」かどうかを調べることが、カンタンに誰にでも分かるような。そういった、もっと区別のしやすくなるような条件を考えようとすることが進められています。

ここでは。そういったものの、代表といえるモノを紹介しておきます。

深く知るa「全部で一部」「一部で全部」という関係にまとめる説


これは、
「換喩」とは、全部と一部の関係にもとづくレトリックをいう
とする考えかたです。

で、このような考えかたをとったばあい。
「換喩」というものは、


使い方1「全部で一部」
——そのものの全部によって、その一部をあらわす言いかた

使い方2「一部で全部」
——そのものの一部によって、その全部をあらわす言いかた
という2つに分けられることになります。

具体例を入れながら、もういちど確認しておくと、つぎのようになります。

使い方1「全部で一部」
表現したいモノよりも大きい表現で、それに含まれる一部をさすこと
「久谷」で、「九谷焼=久谷で作られた焼き物」のことを言う
  (——「久谷」という土地のほうが大きい)   など

使い方2「一部で全部」
表現したいモノの一部分で、それを含む全体をさすこと
「赤ずきん」で、「赤ずきんをかぶった女のコ」のことを言う
  (——「女のコ」という人間のほうが大きい)   など
という2つに分けられることになります。

ここで。気がついた方が、いらっしゃるかもしれません。この考えかたは、〈古くからの定義〉をまとめて1つにしたものと大してかわらないのです。

かなり極端な書きかたをすると。〈古くからの定義〉で「列挙」されてたもののうちで、いちばん中心となっているもの1つ。それでもって、他に「列挙」されてたものの代表とする。と、そのように言うこともできます。

そういったわけで。この定義は、あまり評判がよくありません。つまり、昔の「列挙」式の定義を引きずっていると考えられるからです。

くわしくは、『文化と発想とレトリック(日英語比較選書 1)』(巻下吉夫・瀬戸賢一/研究社出版)をご参照ください。

深く知るb「あるいは」と「かつ」という関係で「提喩」と区別する説
この、「あるいは」と「かつ」という関係で「提喩」と「換喩」とを区別するというもの。これが、今のところ有力だと思います

この説は、「あるいは」と「かつ」という関係のどちらが成りたつかを考える説です。つまり、たとえられることになったものと、実際使われた言葉との間に、
  • 「かつ」という関係があれば、「提喩

  • 「および」という関係があれば、「換喩」
とすることによって「提喩」と「換喩」とを区別して、「換喩」をハッキリさせようとする考えかたです。

そういうことかというと、だいたい次のようなことになります。なおこの説では、「換喩」に似たレトリックといえる「提喩」と比べながら「換喩」についての定義をします。ですので、あわせて「提喩」についても書くことになります。

使い方1 換喩とは?
「換喩」を「提喩」との比較で言えば、次のようになります。

まず「換喩」。
例えば「木」ということばを使うことによって、「枝」だとか「葉」だとかをあらわしているばあいを考えてみましょう。

すると、
木 = 枝「および」葉「および」幹「および」根「および」…
といった関係になっていることが読みとれます。つまり、接続詞「および」よって結ぶことのできる関係だということができます。

こういった接続詞「および」によって結ぶことのできる関係を、「論理的積」の関係とすることにします。そして、この「論理的積」つまり「および関係」が見受けられるものについて、これを「換喩」とすることとします。

使い方2 提喩とは?
これにたいして「提喩」。
例えば「木」ということばを使うことによって、「桜」だとか「梅」だとかをあらわしているばあいを考えてみましょう。

すると、
木 = 桜「または」梅「または」竹「または」…
といった関係になっていることが分かります。つまり、接続詞「あるいは」によって結ぶことのできる関係だということが言えます。

こういった接続詞「または」によって結ぶことのできる関係を、「論理的和」の関係と考えることにします。そして、この「論理的和」つまり「または」が成りたっているものについて、これを「提喩」と捉えることとします。

で。
このような考えかたは、記号によって説明や表現されることの多いものです。ですので、そのような記号についても触れておくことにします。

使い方3 換喩とは?——ふたたび
「換喩」のばあいは「論理的積」です。でもって、総積の記号は「パイΠ」です。まあ、数学をあまり知らない私(サイト作成者)には縁もゆかりもないのですが、とにかく「大文字パイ」というヤツは「総積」をあらわす記号です。なので、こちらは「パイΠ」によって「換喩」を説明することになります。

つまり、
換喩Π : 木=枝and葉and幹and根……
という式が成立するものです。これが「換喩」となります。

なお、このときには。「かつ」という接続詞のかわりに、「and」という英語を使ったりします。
使い方3提喩とは?——ふたたび
それにたいして「提喩」とは、「論理的和」です。でもって、総和の記号は「シグマΣ」です。なので、このような説では「シグマΣ」によって「提喩」を説明することがあります。

つまり、
提喩Σ : 木=桜or梅or竹or……
の公式で表せるもの。これが「提喩」といえます。

使い方3参考文献
この説は、佐藤信夫先生の唱えていた考えかたを紹介するものです。つまり、根っこの部分では、グループμの『一般修辞学』にもとづく。その上で、佐藤先生による手直しを加えた。それが、この説です。

日本では現在、わりとこの定義が一般です。

なお。この説については。
いちばんの参考文献としてはやっぱり、佐藤先生の『レトリック感覚(講談社学術文庫 1029)』(佐藤信夫/講談社)をあげておきます。『一般修辞学』(グループμ[著]、佐々木健一・樋口桂子[共訳]/大修館書店)については、翻訳書なのでイキナリ飛びつくのはハードルが高いと思います。

深く知るc「〜の一部」と「〜の一種」という関係で「換喩」と区別する説
この説は、「提喩」と「換喩」との区別が楽ちんです。どうしてかというと、「ただ公式に当てはめればいい」からです。

使い方1「換喩」のばあい
「換喩」とは、
「××は○○の一部である」という言いかたができるとき
が、この××と○○との関係のことを呼びます。

たとえば。
【枝は木「の一部」である】という言いかたができます。けれども、【枝は木「の一種」である】という言いかたはできません。こんなばあいに、この表現を「換喩」とすることとします。

使い方2「提喩」のばあい
これに対して「提喩」とは、
「××は○○の一種である」という言いかたができるとき
に、この××と○○との関係のことを指します。

先ほどと同じように確認してみると。
【桜は花「の一種」である】という言いかたができます。しかしながら、【桜は花「の一部」である】という言いかたはできません。このようなときに、この表現を「提喩」と呼ぶことにします。

使い方3参考文献
これは、瀬戸賢一氏が強く主張している考えかたです。なので、『日本語のレトリック—文章表現の技法—(岩波ジュニア新書 418)』(瀬戸賢一/岩波書店)が入門としては最適です。あとは、『認識のレトリック』(瀬戸賢一/海鳴社)あたりに丁寧な説明があると思います。

深く知る6ここでテスト

深く知るa問題。右のセリフは「換喩」か?
——『おおきく振りかぶって』4巻175ページ(ひぐちアサ/講談社 アフタヌーンKC)
花井の母 今 門から
出きった!」
三浦の母 え——っ
うちの子 どれ——っ」
花井の母 うちのは わかる!
一番前!
三浦の母 やだ うちの子
どれだか わかんな
い——っ
篠岡 ……みんなっ
歩いてるっ」
篠岡の先輩 わかる わかる
当たり前のことに
感動するよね」
篠岡 ホントに
夏がはじまっ
ちゃった
んだ)
——『おおきく振りかぶって』4巻175ページ
(ひぐちアサ/講談社 アフタヌーンKC)
といった具合で。

分かったような、分からないような。なんだか、ボヤーッとした説明を書いてきました。

でも。実際に、文の中で「換喩」だということが分かるかどうか。それが、気になってくるのではないでしょうか。

そこで、問題です。
右のセリフは、「換喩」でしょうか? それとも「提喩」でしょうか? 考えてみてください。

なお。いちおう、この場面を説明しておくと。

篠岡は、高校の野球部でマネージャーをやっている。そして、今はじまったのは、夏の高校野球。

くわしく書けば。
夏の高校野球の、埼玉予選大会の
入場行進のうちで、西浦高校の野球部の
入場シーン
が、今はじまったということです。

でもって。マネージャーをやっている篠岡の感想に使われている
ホントに
夏がはじまっちゃったんだ)
という文。このなかにある「夏」というヤツは、「換喩」でしょうか? それとも「提喩」でしょうか?

深く知るb答え。
答え。右のふき出しにある「」というのは、「換喩」です。

「換喩」のページで扱っているのだから「換喩」に決まっている。
——という声が聞こえてきます。

まあ。たしかに「換喩」であることは、まちがいないのですが。ここでは、その「換喩」だという理由というのを書いていくことにします。

「換喩」なのかどうかを、考える前に。まず、この「」という表現が「レトリック」だといえるかどうかを、確認しておくことになります。

ようするに。篠岡の目の前で「文字どおり」に「夏という季節がはじまって」いるのであれば、「(ここでいう)レトリック」とすることはできません。ですので前提として、「」という言いまわしが「(ここでいう)レトリック」なのかどうかを、いちおう確かめます。

とすると。なにをもって、「夏がはじまる」とするのか。これは、なかなか難しいです。気象庁が「梅雨明け」の宣言をしたときに、「夏がはじまる」のでしょうか。それも、ちょっとヘンではあります。ですが、どちらにしても。
篠岡の目の前で「文字どおり」に、「夏という季節がはじまって」いるわけではない
ということだけは、確かです。ですので、なんらかの「(ここでいう)レトリック」だと言うことはできます。

といったわけで、つぎのステップとして。
ここで使われている「」という表現が、具体的には「何のレトリック」になるのかということを考えることになります。つまり、ここで使われている「」という単語が、この表現が「換喩」あのか、それとも「提喩」なのかと。そういったことを考えるという段階に進むことになります。

まず。たとえられた結果、使われることになった言葉を調べます。これは、「夏」という単語です。これに、(1)という番号をふっておきます。

つぎに。「夏」という言いかたをしなければ使われていた、もともとあったと思われる言葉を考えます。これは、セリフとしては示されていないので、想像することになります。

ここでは、「夏の高校野球」という言葉だということにします。そしてこれを、(2)とします。

そして。(1)として使われている「夏」という単語と、(2)として考えられる「夏の高校野球」という言葉を、くらべることになります。

(1)夏」というモノには、いろいろなイベントや風物詩があります。
たとえば、
  • 花火大会
  • 夏休み
  • 盆踊り
  • 海水浴 ——などなど。
このように、いろいろ思い浮かべることがでいます。そして、この中の1つとして「(2)夏の高校野球」があるというわけです。

ですので。
ここでの、「(1)夏」ということばと、「(2)夏の高校野球」ということばの関係では、
(2)夏の高校野球」は、「(1)夏」に含まれて、その一部分となっている
ということが成りたっている、と考えることができます。
そして、これまでに書いたように。「(1)夏」と「(2)夏の高校野球」とが「全部と一部」という関係にあるものは、「換喩」です。

こういったわけで。ここに使われている「夏」というヤツは、「換喩」だということができます。

そして、つけ加えると。
この表現のように、「(2)夏の高校野球」のことを「(1)夏」ということばで表すというのは。この場面の流れでは、ありきたりの普通の表現です。そして、ここで使われた表現のように、「ジミ」で「レトリックっぽくない」もの。これが、「提喩」の大きな特徴です。

もしも。このシーンで野球部マネージャーの「篠岡」の口から出たコメントが、
夏の高校野球の、埼玉予選大会の入場行進のうちで、
西浦高校の野球部の入場シーン
が今、はじまった。などという回りくどい言いまわしをしたとするなら。そっちのほうが、よっぽど「レトリックっぽい」ものになります。具体的には、「敷衍」というレトリック用語が当てはまるとおもいます。

深く知る7「換喩」と他のレトリックとの関係

深く知るa「換喩」のことを示すレトリック用語
「換喩」のことを、英語では「メトニミー」と言います。そして、「換喩」をいうレトリック用語を使わずに、「メトニミー」というカタカナ語をそのまま使うことも、わりとよくあります。

そして。
このレトリックについては、「換喩」「メトニミー」という2つの呼びかた以外には、めったにお目にかかりません。ほとんどのレトリック用語には、同じレトリックなのにもかかわらず色々と呼びかたがあって、やたら混乱することがあります。ですがこの「換喩」については、「換喩」か「メトニミー」という、どちらかの呼びかたしかありません。

しいていえば。明治の始めごろ、日本にレトリックという学問が輸入されてきたときには、もう1つの訳しかたがありました。それは、「易名」というものです。ですが「易名」という呼びかたは、明治の中ごろまでには衰退して見かけなくなりました。ですので、いまの時代に書かれているレトリック関係の本には、このレトリックは「換喩」か「メトニミー」という、どちらあの呼びかたで載っているはずです。

深く知るbほかのレトリックとの関係
この「換喩」に関係するレトリックとして「転喩」というものがあります。

これは、ある物事を直接に言うかわりに、それに先行または後続することを言うレトリックです。ですので、この「転喩」は「換喩」の一種ということができます。

さらにいえば。この「転喩」は、[原因で結果]または[結果で原因]を表すものとして「換喩」に含める場合もあります。「換喩」に含めるということは、とりたてて「転喩」という項目をつくらないということです。わりと、このように考えるレトリック研究者もいます。

ですが。このサイトでは、いちおう「転喩」というページは作っておきました。ですので、そちらもあわせてご参照ください。




レトリックの呼び方

呼び方 換喩・換喩法
呼び方 メトニミー


関連レトリック

直喩隠喩提喩換称転喩、失形象法、異例結合

参考資料

●『レトリックの宇宙(MONAD BOOKS 48)』(瀬戸賢一/海鳴社)

ここまでであげていない本の中で、参考となる資料を探す。すると、まずこちらがあげられるのではないでしょうか。あと、同じ著者の『日本語のレトリック—文章表現の技法—(岩波ジュニア新書 418)』(瀬戸賢一/岩波書店)も、ていねいなコトバでかかれているのでオススメです。
●『イソップのレトリック—メタファーからメトニミーへ—』(樋口桂子/勁草書房)

やや専門的ではあります。けれども、「換喩」を中心にすえて、そこから「寓話」などのさまざまなレトリックを紹介しています。そのあたりが参考になります。
●『レトリックと認識(NHKブックス 894)』(野内良三/日本放送出版協会)

効果面については、こちらの本を参考にしました。



余談

余談1「鍋をつくる」とは?

この、異常なまでに長い文章を読んでいただいたヒトに。ちょっと補足を。
ナベを作る
という文章を見たとき。これを「換喩」だと思って、
「ナベ料理を作る」ということだ
と考える。それは、たいてい当たっています。

しかし。ばあいによっては、違うこともあるんです。
ナベの製造工場で、(ステンレスとかアルミの)ナベを作っている
という、「文字のまま」「文字どおり」としての意味だということもありえます。ごくたまに。

もちろん、その「ナベを作る」というフレーズの出てきた、その前後の流れをつかんでいれば。まず、読みまちがえるヒトはいないはずですが。

余談2「換喩」は伝わらないこともある

——『ショコラ〜maid cafe "curio"〜』1巻152ページ(桐原いづみ/マッグガーデン BLADE COMICS)
翠(みどり) テーブルを片づけて
きてって頼んだら
テーブルごと
運ぼうとした
美里 …人間誰しも
最初は初心者
です…よね?」
——『ショコラ〜maid cafe "curio"〜』1巻152ページ
(桐原いづみ/マッグガーデン BLADE COMICS)
「換喩」は、「文字どおり」に扱われては困るというレトリックです。

言いかたを換えると、みんなが理解をしているようなシーンで使わないと、「換喩」は通じないことがありえます。

つまり「換喩」は、その「換喩」が使われるシーンによる限定があるといえます。

右の画像は、『ショコラ〜maid cafe "curio"〜』1巻から。

作品の舞台は、メイドカフェ"curio"。そこで新人の美里が、先輩の翠(みどり)に仕事を教わっているのがシーン。

翠(みどり)が「テーブルを片づけて」という。ここが喫茶店であることを考えれば、食器を下げたりテーブルを拭いてキレイにしておくとか、まあいろいろあります。

ですが美里は、テーブルを動かす。テーブルを運ぼうとする。これは、ある意味で合っています。ですが、喫茶店の店員としてしなければならないのは、そのようなことではないはずです。

ここで大切なのは、ふつうの人ならばテーブルを運ぼうとはしない、ということです。自分たちのおかれた状況から考える。すると、「テーブルを片づける」という表現から「食器を下げる」という動きをするのです。

ではなぜ、このような混乱は、どうして生まれるのか。それは、「換喩」として送り手(話し手・書き手)が使ったコトバを、受け手(聞き手・読み手)がうまく「換喩」として元に戻せないからです。

今回のばあい。送り手(話し手・書き手)は、「全部で一部」という関係を使っています。「テーブルを片づける」(=全部)で「食器を洗って」(=一部)をあらわしているのです。

ですが受け手(聞き手・読み手)は、「テーブルを片づける」という「全部」が、そのまま使われたというわけです。

このような食い違いは、状況・文化が大きく離れているばあいに多くなるものだと言えます。


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